👆 長岡京市の柳谷観音にひとりドライブ
気温が一気に下がり、ようやく冬らしくなってきた。
日本語学校と専門学校の授業は今週木曜までで、
新学期は、日本語学校の方は来年1月11日から。
専門学校に至っては、来年3月からとなる。
三週間もの休みがあれば、即海外へ行くのが
これまでの僕のパターンだったが、
年末年始は空港も、ものすごく混むだろうし、
今回は、国内でまったりお籠りをするつもりである。
👆 参拝者はボクひとり
それから、今行っている日本語学校から、
別の学校に変わろうかな、と思案中である。
今の日本語学校は、朝9時から授業があるので、
早起きせねばならず、夜更かしができないので辛い。
なので、昼からの授業があって、今より時給もよく、
家から近い学校に移ろうかな、と考えている。
来年10月には香港大学へ行くかもしれないし…。
👆 完璧な静寂
そういう意味で、日本語教師は、融通がきくし、
教師不足なので売り手市場で引く手あまただし、
定年退職した人が就く職業としては最高だ。
👆 午後5時、読経が始まった
というわけで(ってどういうわけ?)
今に在る神に抵抗せず、そのもののみで在る、とは、
ズバリ〝解釈しない〟ということである。
それは、
解釈を取り下げる訓練をすることでもなければ、
日常生活で起きてくるひとつひとつの出来事を捉えて、
それを解釈せずに見る実践をすることでもない。
何かを〝しよう〟とした時点で解釈が起こっている。
要するに、解釈だけが唯一にして最大の問題だった。
もっと言えば、あらゆる物事に対して解釈したい、
という意識の欲動を自分だと思っていることが、
神を見えなくさせている、たった一つの原因なのだ。
自分無しに起きているこの欲動が自分ではない、
と智覚できれば、
神そのものがむき出しでずっと在ることに気づける。
👆 授業の後は、エビスバーで、ぷっはーっ!
例えば、月曜の朝、会社へ行き上司に挨拶すると、
上司は自分を無視して、むすっとしている。
暫くして、上司から仕事のミスを指摘するメールが来た。
後輩の同僚は、上司からも信頼され、楽しそうだ。
これを順にみてゆくと、以下のようになる。
朝だ⇒今日も会社だ⇒何を言われるかな⇒不安だ
上司だ⇒挨拶⇒またあのむすっとした感じ⇒ドキッ!
後輩なのに自分よりいい感じ⇒惨め⇒恐怖と不安
月曜の朝、会社へ行って上司の顔を見ただけで、
これだけの〝解釈〟が自動的反応で起きている。
その自然に立ち起こってくる解釈を、
〝わたしが〟解釈していると思っている。
それが自分ではないと看破して見過ごすこと、
それが赦すこと、となる。