👆 新世界商店街のポスター第二弾!
〝私〟などいない、を頭で理解するのはとても難しい。
なぜなら、私という漠然とした存在感が常に在るからだ。
じゃあ、その存在感はどこにあり、それは何なのか、
と問われても、その所在を明確に答えられない。
肉体?頭の中の思考や記憶?みぞおち?
なんとなく自分という存在感は感じているのだが、
その存在感に向き合わずにふわっと生きている。
👆現在は閉店しているけれど、
ポスターだけはまだ店の前に掛かっていた
世界はない、といくら言っても消えてなくならず、
会社は会社として在り、いやいや電車に揺られている。
漠然とした何かがあるというこの存在感、
一体、何を見て、何を聞いて、何を匂い、何を味わい、
皮膚が何を感じ、意識が何を認識しているのか。
👆店主の息子?は今も店に立っていて、
外国人観光客相手に団子を売っている
目、耳、鼻、舌、皮膚、脳、これら肉体全体の活動を
自分であるかのように思い込んで生きている。
机、椅子、山田さん、目を通して見えているそのもの、
音楽、言葉、声、耳を通して聞こえているそのもの、
花の匂い、汗の匂い、鼻を通して匂っているそのもの、
肉の味、醤油の味、舌を通して味わっているそのもの、
暑い、寒い、痛い、皮膚を通して感じているそのもの、
好き、嫌い、したい、脳を通して認識しているそのもの、
もし、これらの活動が〝私〟であるとするのであれば、
山田さんや、椅子や、救急車の音や、うんこの匂いや、
ケーキの味や、暑さや寒さや、好き嫌い自体が自分だ、
ということになり、そしてこの6感が捉えた活動が、
漠然とした自分という存在感の正体である、と言える。
逆に言えば、肉体は自分ではない、と言いながらも、
目や耳や鼻や舌や皮膚がなければ、
自分を認識することができないのだ。
見えているもの自体、聞こえているもの自体、
匂っているもの自体、味わっているもの自体、
感じているもの自体、認識しているもの自体、
自分という存在感だと思っていたものの正体は、
本当は何だったのか、ようく見てみる。
捉えられないけれど、自分が居る、という存在感。
年齢を重ね、見た目が変わっても、
経験を重ね、性格や内面が全く違ってしまっても、
ずっとかわらず存在してきた〝私〟という存在感、
机や椅子やコップがそこにあるという存在感、
この漠然と感じている〝自分〟という感覚こそが、
〝神の存在感〟だったと気づくこと、
そこから罪の解体が始まる。
👆 ふんどし専門店。ここも閉店しているが、
ポスターだけは商店街にぶら下がっている
上司が放った暴言に傷ついたときの憎悪の感じ、
明日も仕事かあ、と感じた時のあのイヤーな感じ、
嫌で嫌でたまらないあの人の存在感、
それが神の存在感であることに気づけたなら、
それが「大好きだよ!」の裏返しだったと解かる。
今は死ぬほど辛くて苦しくて憎悪を募らせていても、
今いる部屋の目の前には、机とコップしかない。
聖霊に一致して動いたりしなくても、もうすでに、
一致〝させられて〟動いている(爆!爆!)。
そのままで、神が存在している。