👆うちのマンションの下にLUUPが来たよ!
都会で生活する者にとっては本当に便利
神の沈黙とは、精神的にも、物理的にも、
じっとしていることなのだ、と、
腑に落ちて思う今日この頃のボクである。
神に開いて何もしない、とは、
思ったら思った通り、動いたら動いた通りでいる、
要するに、普通にしている、ということである。
神を恐れているかどうか、を試す簡単な方法がある。
三日間休みがあったとして、家から一歩も出ず、
スマホもパソコンもテレビも見ず、
ただ家でじっとしていられるか、でわかる。
それで、むずむすいたたまれなくなって、
外へ出ていってしまえばしゅーりょー、である。
自分はお籠り大好きだし、人と交わるのが苦手だし、
何もしないで家にいるんなんてお茶の子さいさい、
と思っているだろうが、いざやってみると相当きつい。
そう、家にこもって何もしないということは、
自分の内面に向き合う、ということでもあるのだ。
〝それ〟を直視したくないがために人は、
仕事に没頭したり、遊びに没頭したり、
休みの日にツーリングに出かけたり(誰のことや!)、
町内会の事に忙しく動き回ったり(誰やねん!)、
あちこち外国を旅してみたり(俺かっ!)、
そうすることで、内なる神を見ないようにしている。
本当は何を見ないようにしているのか、
自分が真に見たくなかったのは何だったのか、
それは罪悪感でもなければ、無価値感でもない。
本当に見たくなかったものは、
救われ切っている自分であり、神である。
罪悪感や恐怖だと思っていたものは、
神であり、悦びの想い、だった。
だから、罪悪感を消そうとしても無理なのだ。
罪悪感や恐怖を見つめ、それが神だと智るには
物理的にも何もしない〝瞬間〟が必然となってくる。
それは〝ずっと〟ではなく〝瞬間〟で十分である。
僕はそのために仕事を辞め、日本へ戻って来た。
ただそのままの静寂の領域にいる人を指して、
「これはまだブッタのレベルで、その先があるんだよ」
みたいに言うコース兄弟がいらっしゃるが(尊敬語…)
まずは、肉体をじっとさせんと始まらんで、
と思うのである。
何もしないとは、今見えているもの、聞こえているもの
に留まってそれ以上の解釈をしない、ということだ。
月曜の朝に不安から会社行きたくない、と思ったら、
それに開いてじっとしている。
会社には、壁があり、机があり、パソコンが、あり、
同僚と呼ばれる人間がいて、ただそれだけなのに、
それでもなお、そこに感じている存在感。
その存在感の正体をはっきりさせる。
〝じっとしている〟の先に待っているのは、
静寂や虚無ではない。