👆 コンクリートの打ちっぱなし
二階がマスターの住居になっているという
冬晴れの寒い日、友人と、車で京都へ行ってきた。
京都御所の近くに「ティーハウス・アッサム」という、
とても素敵な空間の店がある、とその友人が言うので
健康寿命を気にしている僕は(爆)(笑) 、
今、即、実行、とばかりに、
車を飛ばして訪ねることにしたのだ。
👆 許可を得て、撮影させてもらう
これ全部マスターの手作り
そこは、一元さんや観光客は絶対に見つけられない、
閑静な住宅街の中にあり、ダンディーな(死語?)
70歳くらいの店主がひとりでやっている。
訪れた時には、僕たち以外、客はおらず、
窓際のソファ席に座り、紅茶とケーキをいただいた。
聞けば、紅茶は全て店主が厳選し、
ケーキやパンも店主自身が生地から作るという。
またこの店は、写真撮影禁止、子供連れ禁止、
ペット連れ込み禁止、4名以上の入店禁止、と、
店主の空間へのこだわりが感じられる。
しかし、ピリピリした雰囲気は一切なく、
店主も、にこやかですごく感じのいい人である。
店内には、真空管の音響が奏でる癒し音楽が流れ、
一歩店に足を踏み入れた途端、外界から隔絶され、
瞑想しているような時間を過ごすことができる。
紅茶やスコーンもおいしく、心からリラックスできた。
窓から差し込む冬の木漏れ日もここちよくて、
本当に幸せな、空っぽのひと時を過ごせた。
帰り、哲学の道を銀閣寺まで、散策して歩いた。
一瞬一瞬の存在感に静かな歓びが溢れてきた。
この夢見から、今回で脱けてゆくのだな、
とふと思った。
👆 奥に小さくマスターが映り込んでいる
例えば、
葡萄を食べたときに感じている味を、葡萄の味だ、
と解釈して葡萄を理解した気になっている。
葡萄の味などというものはすべて後付けで、
その前には、絶対に表現することなどできない、
なんとも説明できない味そのものがあるはずである。
そして、葡萄の味、という解釈がでてくる以前の、
言葉では定義できない〝存在感〟を体験することが、
神を理解し、体験することになる。
そういう意味で、僕たちは、この神の存在感を、
言葉で解釈することで別のものに歪めて認識している。
夢の中に、ビルや会社や田中さんが顕われ、
自分の前を通り過ぎては、やがて消えてゆく。
雲のように流れてゆくそれらの風景の背後に、
デーン、と何かがあるような存在の気配…。
人がいる、会社がある、お金がある、と感じた時の、
〝ある〟という漠然とした存在感の正体…。
ビルや会社や田中さんだ、と言葉で定義する以前の、
確かにそこにある〝何か〟の存在感に気づいたとき、
神の姿そのものの様子がつまびらかになる。
それには、空っぽである必要がある。
そのままで、なにもせず、ただ渡して、からっぽ…。
(わたしが) 委ねる、とか、任せる、のでもない。
夢にあらがわず、どんな感情も渡して、からっぽ…。