九州から戻った後、4月から教えている日本語学校へ
辞めさせてほしい趣旨を伝えに行った。
理由としては、現在担当している入門クラスと、
日本語能力試験対策クラスのうち、
入門クラスの授業準備の負担が大きすぎるのと、
(4コマ教えるのに10時間くらい準備が必要)
授業後の事務処理のルールが細かすぎて、
非常勤講師なのに何でここまで、という点にあった。
(ペンの置き方、ファイルの閉じ方、名前の書き方など)
その他にも、教科書を教師が自腹で買ったり、
枚数の多い教材の印刷やコピーは教師負担だったり、
教師間のやり取りに個人のグーグルアカウントを使用
(それも学校のPCでログイン)、などなど、
どうにも腑に落ちないことだらけで、もう無理となった。
「辞めるというのは、生徒を見捨てるということですか」
「これから教師としてのキャリアを積んでいくために、
教科書一式を自分でそろえるのは当たりまえですよ」
「他の学校の事務負担なんて、こんなもんじゃない。
うちなんて、まだ本当に少ない方ですよ」
会議室で校長(65歳くらい)がまくしたてる。
こちらはもう辞めるつもりでいるので、何を言われても
〝もう決めましたのでご容赦ください〟で突き通す。
「いくら募集をかけても、先生が本当に来ないんです」
と、隣にいた教務主任(校長の奥さん)が言う。
知るかよ、と思ったが、結局、教務主任が提示した、
残りあと一か月の間、入門クラスは教えなくてよく、
日本語能力試験対策クラスのみを教え、
授業後の事務作業もしなくてよい、という打開案で、
なんとか了承した。(勤務の最終日は6月5日)
「生徒を見捨てるのか」と校長から言われたとき、
罪悪感が、もわもわぁ~、と湧き上がってきた。
が、この感覚は間違っている、と、即座に否定した。
自我は常に、敵を作って攻撃させようとするが、
ここまでくるとさすがに、
そんな詐欺行為には引っかからなくなった。
自我が作り上げたウソの物語を見て罪悪を感じても、
これは本当にウソだ、と、信じなくなっている。
自我の策略にハマって、罪悪感を感じてしまっても、
〝だから、なに?〟である。
罪悪感を感じようが、感じまいが、それとは関係なく、
罪悪なんて、はなから無かったことを智っている。
自分は無条件に愛されている存在であり、
自己の無罪性は絶対に壊れることがない、
と智っている。
だから、どんな感情も、兄貴に開いて(👈ここ重要!)
〝消えてゆく姿〟として見過ごしてゆくことができる。
コイツ死ね、と思っても、役に立っていなくても、
大げんかをしても、言いたいことが言えなくても、
やっぱり罪はなく、消えてゆく姿でしかない。
重要なのは、本当は罪なんかなかったことを、
智っていることからくる余裕で、
力強く見過ごしてゆくこと、である。
なぜなら、
それは一度も起こってはいなかったのだから。