先週木曜日から昨日まで大阪へ帰省していた。
『神の使者』の作者であるゲイリー・R・レナード氏の講演会に参加するためだった。
講演会は二日間、京都で行われた。
天気もよく、さわやかな春の京都を思い切り満喫できた。
ゲイリー氏の講演会は、別段これといった気づきもなく終わった。
半分くらい寝ていたと思う。
首が後ろへガック、ガック、なっていたと、あとで乙女ののりちゃんが教えてくれた。
質問コーナーではハレルヤさんが質問していた。
緊張のあまり声が上ずり、手も中風の人みたいになっている。
「しっかり!何も起こってない!落ち着いて!」
僕も心の中で、ハレルヤさんとしての赦しを行う。
見れば乙女ののりちゃん、おみえさんはじめ、チームハレルヤの仲間たちも、
心の中で一生懸命サポートしているのが見て取れる。
他の人の質問に対する回答もそうなのだが、ゲイリーの回答は、
すぐに大元の質問から離れて行ってしまい、結果ちょっと逸れ気味な回答になってしまう。
ふと、痴呆症になったうちのおじいちゃんを思い出した。
「これ、誰や?」と僕を指さしながら父親がボケたおじいちゃんに訊いたら、
「二階の居候や!」と答えた。
二階の居候に違いはないが、ここは孫だ、とずばり答えてほしいところだ。
そして、最後に達した結論は、我らがチームハレルヤは、ひょっとして、
世界の学習者の中でも、かなり前の方を歩いているのではないか、ということだった。
↑ゲイリー&シンディと記念撮影。ゴキゲンの僕。
講演会はこんな感じだったが、なによりうれしかったのは、
ハレルヤさんや乙女ののりちゃん、おみえさん、神戸のともちゃん、
森田さんやなおずみさんなど、多くの仲間たちに会えたこと。
これでしおちゃんがいれば関西陣は完璧だったのに…。会いたかったなあ!
夢から脱出すること、我が家へ帰ることを完全に決めた人たちとの語らいは、
ものすごく励みになる。スカイプやググタスでやるのとはやっぱり全然違うよ。
今回の日本帰国によって体感しているのは、赦しのレベルが一段階上がった、ということだ。
マインドの映写機から、様々な映像が幻想のスクリーンに投影されていて、
そのマインドを変えると、投影される映像も変わる、とゲイリーは言っていた。
それは真実だろう。
だが、もう映像は変わっても変わらなくてもいいと思っている。
今の僕は、ハートの光が幻想のスクリーンの周囲を包囲していて、
その愛の光がスクリーンの裏側からこちらへ透けて放射されてくるのが見えている。
だから、スクリーンに映る映像は幻想でも、
その背後から投げかけられる光はハートに満ちていて、
それゆえに、どんなに攻撃的な人を見ても、どんなに悲しんでいる人を見ても、
どんなモノや事柄を見ても、その背後に愛の光を感じてひゅんひゅうんしてしまうのだ。
ハートの愛の光は肉体としての自分の位置からではなく、対象から自分へと放たれている。
その愛の光が、今回の京都でますます強烈さを増した。
変な言い方だが、幻想のなかの何を見ても、もう真実の愛にしか見えなくなった。
日常を見て、これは幻想だと言い聞かせる必要がなくなった。
ハートが当たり前になっている。
そして、こういう感覚こそが兄貴と共にあるということなのだと分かる。
この感じの中に佇んでいると、全てが自動的な赦しにつながってゆく。
これからはハートにくっついた思考まじりの〝ひゅんひゅん〟を、
一回一回兄貴に渡して修正してもらう、というやり方が、
だんだんマイナーなものになってゆくのだろうと思う。
↑ハレルヤさんのとなりで乙女ののりちゃんがうれしそう。
ゲイリーの講演会が終わり、みんなで京都駅のホテルラウンジでお茶をしながら話した。
僕はそのとき、もうすぐ大きな赦しの山場が来ることについて話していた。
深圳工場での大きなプロジェクトの主要人員になったこと。
さまざまな困難な項目が目白押しとなっており、
大きな罪悪感と後ろめたさが、赦しても赦しても出てくること。
世界はない、何も起こってはいないと分かっている。
最大の赦しとエゴの解体を兄貴がセッティングしてくれていることも知っている。
全ての人や物事の背後に、真実のハートの光と愛を感じる。
それでも、やっぱり、怖い。
そんなことを話していたら、隣に座っていたハレルヤさんが、
「みんなで、香港さんの赦しを助けることもできるんですよ。」と言うではないか。
本当に彼は、前回の沖縄の時といい、ここぞというところですごい一言を口にする。
「他の人たちが一緒にその人の赦しを行うことによって、
問題を抱える本人がより赦しやすくなるんです。」と説明してくれた。
そのとき、乙女ののりちゃんが、
「じゃあ、神戸リトリートは6月下旬から〜7月上旬くらいにしようか。」
と言ってくれて、見ればハレルヤさんや、乙女ののりちゃんや、なおずみさんや、
森田さんや、神戸のともちゃんの、みんなの眼差しがすんごく優しく感じられて、
それがもう、とてもとても優しくて、
ほんとうに泣きそうになった。
人にはそれぞれ固有の赦しがある。その赦しは自分でしか完結できないものだ。
でも、ハートはひとつなのだ。サポートすることはできる。
もうこれからは、香港で一人…などと両手の人差し指をくっつけながら、
うじうじ思う必要はないのだ。
今回の仲間だけではない。香港で出会う全ての人が、
自分が一刻もはやく我が家へ帰れるように、サポートしてくれているのだ。
兄貴を装った父が、眠っている僕の耳元で、一生懸命囁きかけてくれている。
そのことに本気で気づけただけでも、日本へ戻った甲斐があったというものだ。
今回、僕を京都へと赴かわせた〝頼れる兄貴〟の導きは完璧だった。
やはり、僕にとっては東京ではなく京都だったと、今になって実感する。
みんな、本当に本当にありがとうございました。