香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ぷるぷる


↑かなり混んでいる地下鉄で。このおばさんの根性、ハンパない。

昨夜、非常に非常にリアルな夢を見た。

僕は観光名所と呼ばれる崖の上に立っている。断崖絶壁の下は荒れ狂う海だ。

と、そこへ観光バスが停まり、、中から中国人観光客がぞろぞろと降りてきた。

彼らは、はしゃぎながら、崖の上で写真を撮ったり、海へ向かって石を投げたりして遊んでいる。

雲間から太陽が姿を現し、海の色がさっと明るくなった。

その瞬間 「あっ、オレいま、夢の中にいるっ!」って気づいた。

夢の中で、自分が今夢を見ていることを自覚しながら、夢を見ているのだ。

景色はリアルだ。波の音も聞こえる。でも、なぜか自分の身体は見えない。

どうせこれは夢だし、と前を通り過ぎる中国人男性のワイシャツの襟首を掴み、

ちょんと上に持ち上げてみる。

「うわああー。」男が笑いながら手をバタバタさせておどけて見せる。


夢の中なので何をやってもいい、と言う思いが湧き上がってくる。

崖の上に立つ女性の背中をちょっとびっくりさせる程度に押せば、

「アイヤー!」と、彼女はこちらを振り返ってばつが悪そうに笑った。


その時、『フライング・ゲット』の衣装を着たAKB48の島崎遥香と渡辺麻友と高橋みなみが、

なぜか水玉のビニール風呂敷を地面に敷いてお弁当を食べていて、

僕の方を見ながら、ニヤニヤしながら、なにやら囁き合っている。

僕が近づいてゆくと、「きゃああー、この人、なにこれ!」

と口々に叫びながら、三人は弁当を放って逃げていってしまった。

(これは僕の夢の中に出てきている〝ぱるる〟と〝まゆゆ〟と〝たかみな〟で、

本当の〝ぱるる〟と〝まゆゆ〟と〝たかみな〟ではないのだ、

と夢を見ていることを知っている自分は妙に納得しながら、

彼女たちが食べ残した弁当を食べる。


↑いただきまゆゆ

それからは「まあ夢の中だし、死ぬことはないか」と崖の上から飛び降りてみたり、

誰かの頭をくしゃくしゃにいじくりまわしてみたり、〝膝がっくん〟をして遊んだりした。

面白いのは、僕が夢の中の人たちに何かをすると、

なぜかみんな僕に向かってニヤニヤ笑いをするのだ。


そんなことをしていると、突然ものすごく大きな騒音が鳴り響いた。

気が付けば僕は布団の上で目を覚ましていた。

目覚まし時計の電子音がマックスで鳴り響いているのを止め、しばしぼうっとしていた。

そう言えば以前にも同じような夢を見たことがあった。

その時の夢はもっと短編で、同じように僕は崖の上にいたのだが、突然これは夢だと気付き、

それならば、夢の中でなければ許されないようなことをしてやろうと、とっさに、

『半沢直樹』の片岡愛之助みたく、その男性の股間を〝ふんにゅっ〟と思い切り掴んでみた。

この時もその男性は、ただにやにや笑いをしているだけだった。


それからシャワーを浴び、身支度を整えて出勤した。

電車のなかで〝夢を見ていることを自覚しながら夢の中にいた〟

ときのことを思い出していると、

「あれ、今も、俺って夢をみてるんじゃん。この人も、この電車も、外の建物も、

会社に行こうとしている自分も、全部、自分が創りだしてみている夢じゃん。」

ってバコンと入ったのだ。


「現実は夢です。リアルではありません」というのはスピ系の常識だ。

その話をすれば、「ああ、知ってる、知ってる。」って頷いてしまうのだが、

日常生活で24時間、これは夢だということをちゃんと自覚して、

というか認識して生きている人は、自分も含めて少ないと思う。


「ひとつひとつを夢の産物だとちゃんと確認し続けることで、夢から目を醒ますことができる。」

と、このとき兄貴からメッセージが入ってきた。


そうかあ、本当に夜眠っているときと同じ要領で目を覚ませばいいんだな、と悟る。


よく、植物人間になって、何年も眠った後に目を醒ます人がいるが、原理は同じだと思った。

そういう人の場合、お父さんやお母さんが絶えず傍らで話しかけたり、音楽を聞かせたり、

身体をさすったりして、必死でわが子の目醒めを促そうとしている。

傍らで付き添ってくれている人が父だとすれば、

植物人間になって眠っている自分がさしずめハートの自分というところだろうか。

ハートの自分は夢を見ながら愛を感じてプルプルしている。

夢の映像の中に父や母から送られてくる音楽や言葉や体をなでる感触が響いてくるからだ。

夢の中の自分がこれからやっていくことは、

「これは夢だ。あれも夢。そして、それも本当じゃない。」

とひとつひとつに宣言してちゃんと認識し、、

兄貴を通して響いてくる父の声や肌触りに意識を向けることだ。

それが〝赦す〟ということなのではないか、そう思いながら電車を降りた