↑今日は渡し船で九龍から香港島にある訪問先へ向かった。少し寒い。
全ての他者が、自分の無意識の領域に押し込めた罪悪感の投影物だということが、
今日の朝くらいにスコーンと入って、非常に驚愕した。
自分の中にある〝父を裁いた〟という罪悪感を見たくない為に、わざわざその罪悪感を、
自分では感じることのできない無意識の領域に隠し、それを外部に投影してから、
「やっちゃったのは私ではありませ〜ん!悪いのは全部誰々さんなんで〜す!」
と言って他者を非難したり、外部を攻撃したりしている。
これは学習者が初期の段階で学ぶ、至極初歩的な原理でもある。
こんなのみんな知ってるよ。一番最初に習ったじゃん。今頃分かったの?
うん。確かに習った。知ってるだけでなく、ちゃんと分かってもいた。
だから、今までだって、他者の中にある無意識の罪悪感を赦してこれた。
だが、今日突然、本当の意味で、他者が自分の無意識の投影としてリアルに見えた。
イメージではなく、物理的に、相手の体が自己の投影物として生々しく認識されたのだ。
他者それ自体が、自己の深い心の闇そのもののように体感されて、気持ち悪くなった。
相手の言動のひとつひとつが、100%自分の中から出たものとして、びんびん響いてくる。
何やかやと理由を付けては工場へ行きたがらない新総経理を見ては、
「うわっ、俺ってこんなにネズミのように逃げ回ってるんだあ。」と思い、
「あの人、あなたのことをこうこうこういうふうに言ってたよ。」という人を見ては、
「うわわ、俺ってこんなに攻撃してるんだあ。」と感心し、
工場で業者からマージンを取って稼いでいる中国人社員を見ては、
「俺ってこんなに隠れながら神になりたかったんだ。」となった。
プリズムに乱反射する光のように、自分の無意識から放射されたひとすじの光が拡散し、
無数の他者として自分のスクリーンに映し出される。
他者が自分に見せているもの全部が自分の内部そのものだという感覚。
なんか自分の内臓を見せられているみたいで、かなりグロテスクだ。
他者は隠されたもう一人の自分、つまり、
表面の自分が絶対に認めたくないと思っている裏側の自分なのだ。
逆に言えば、他者の一挙手一投足を観察することによって、
自分の無意識に存在するものが何かを知ることができる。
そして、他者の中に見える自分の罪悪感を〝間違った認識から生まれた幻想〟だと、
ひとつひとつ否定することによって、このエゴの考えを兄貴に渡してゆけるのだ。
あとは兄貴が無意識の中のデータを修正、消去していってくれる。
だが、自分の内在世界を代表している他者もまた幻想だ。存在すらしていない。
ただ、相手の言動を見て「うわ、俺ってこんな嫌なものを持っているんだ。」
という体感はある。その体感をただ否定して兄貴に渡すだけでいい。
悪夢自体は幻想だが、その幻想を見て、体感してうなされているのは事実だということだ。
悪夢はない、ということを自分に認識させるために他人がいる。
そう考えると、他者とはなんとありがたい存在なのだろうか。
他者がぐいぐい食いついてきてくれればくれるほど、無意識の罪悪感をちゃんと認識できる。
表面だけうまく取り繕って穏便に済ませたり、いやな他者や事柄から逃げ続けていれば、
無意識の罪悪感はずっと温存されたままになる。
よく冗談で、ずっと家にこもって暮らしていければどんなに幸せだろう、
と書くことがあるが、本当は全然幸せなんかじゃない。
他者と対峙し勝負しなければ、無意識にあるものを認識できないばかりか、
赦すこともできない。
今日は昼から投資顧問会社を訪問。いわゆる偉いおじさんたちと話をしてきた。
その間、ずっと相手を自分の内部だとして観ていた。
自分の分身だと分かったら、もう金輪際、相手を非難なんかできなくなる。
自分の無意識を攻撃したいとはおもわないだろう。
自分がしたうんこちゃんを他人になすりつけ「キャー汚い!」とやっている。
自分のうんこちゃんの後始末はいずれ自分がしなければならない、ということなのだろう。
そして、うんこちゃんなんて幻だ、と認識してゆくことこそが真の後始末でもある。
でも、今まではまだどこか、他者は他者として、別の人として接していたところがあった。
ああ、自分しかいないとはこういうことだったのかと、しみじみ噛みしめた月曜日でした。