香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

いつかのわたし


↑香港名物 濃厚ミルクティー

今朝、アパートの入り口を出て、バス乗り場へ向かっていたときのこと。

最初、アパート横の階段を上ろうとしたが、一瞬はっとなり、

あわてて、スロープになった別の道へ回った。

そのとき、自分があることをしていることに気付いて愕然となった。

〝朝は必ず階段を使わず、スロープになった道を通ること。でないとよくない事が起こる。〟

自分で勝手に設定した、何の根拠もないジンクスだった。


誰でも多かれ少なかれ、ちょっとしたジンクスを持っているものだ。

必ず横断歩道は線の上を歩かなければならない。

朝この信号に引っかかると、よくないことがある。

近道だけど、あの道は通ってはいけない。 

腕時計は絶対に右腕にせよ、 などなど…。

攻撃されるのではないか、という根拠のない恐怖の原因を、まずは道や信号のせいに

してから、出てきた恐怖から身を守るために、別のへんてこりんな規則を作る。

エゴだ!


↑ 工場街の昼下がり。

ふと、以前職場で、風水にまつわるちょっとした事件が起こったときの事を思い出した。

今はもう辞めてしまったシッピング係の女の子が、僕の所へ来て言った。

「ジェームスがわざとハサミをわたしの方へ向けて置いているんです!」

聞けば、斜め向かいに座っている営業マンのジェームスが、

デスクの上にハサミを置いていて、その刃先が自分の方へ向いている、ということらしい。

見れば、確かに彼の机の上にはハサミが置いてあった。

しかし、オフィスにハサミがあるのは当たり前のことだし、僕のデスクにだってある。

だが 「攻撃されているようで怖い!」 と彼女は訴える。

そして彼女も負けじと、小さな鏡を机の上に置き、

ハサミの邪気を跳ね返しているのだと言った。


香港人は風水にまつわるジンクスをとても気にする。

特に〝尖ったもの関係〟には敏感だ。

例えば、レストランで、柱の角が自分のほうに向いている席に座るのはご法度であり、

向かいの建物の角がこちらに向いている家に住む人はだれもいない。


結局、当時の総経理がジェームスに注意をし、ハサミを撤去させて一件落着した。

後で彼に話を聞くと、ハサミがそこに置いてあったことにさえ気づいていなかったらしい。

たとえ相手がそのハサミを取り去ってくれたとしても、

〝悪いことをしたわたしは攻撃されなければならない〟という罪の意識がある限り、

必ず第2、第3の刃物が彼女の前に出現するのだろう。

どうしてそれを見て攻撃されると感じるのか、問題はそこに在ると言える。


こんなこと、正気の沙汰ではない、まさに狂気だ、とバスに揺られながら僕は思った。

どの道を通ろうと、ハサミがどの方向を向いていようと、

よいことも起きるし、そうでないことも起きる。それがエゴの世界だ。

こうやって書くと「エゴの策略だよねえ!」としたり顔で言われそうだが、

分かっちゃいるがやめられないのもまた人情だ。

しかし、狂気だとわかちゃったからには、認めて正気に戻さざるおえない。

この狂気の世界はないと認める。

うおおおー、あにきーっ!


おとといの記事で書いた通り、

他者が自分の無意識の投影そのものであると本当に悟ってからは、

すんごく他者を赦しやすくなった。

そして、誰を見ても自分の無意識を代表しているようにしか見えなくなった。

「俺はここまで酷くない。こんな嫌な面、俺の中にあるはずがない。」

いやいや。外に投影して見てしまっているから、ない、と思っているだけだ。


今日はその感覚がまた1段階進化して、

〝他者は自己の過去世(未来世)だ。〟と気づくに至った。

自分は他者の肉体に、何万回と生き直した自分の姿を見ている。

目の前にいる人はすべて例外なく、姿形も含めて、いつかの自分なのだ。

誰かに教えられたわけはない。が、確信はある。


他者を赦してゆくとは、きっと無数に散らばった自己のアイデンティティをひとつひとつ

放棄していく作業なのだ。