パスポートが出てきた僕は、身支度をしてホテルを出た。
この日は乙女ののりちゃんと一緒に飛行機で羽田へ戻り、
夜は兄弟てっちゃんたちと落ち合う予定だった。
「東京はよくわからないので、てっちゃんちまではのりちゃんについていくからね。」と僕。
「うん。わかった。」乙女ののりちゃんからは何とも頼もしい返事が返ってきた。
しかし、モノレールの乗り場はわからないわ、品川では乗り越しそうになるわ、
高田馬場では西武新宿線への乗り換えに右往左往するわで、いまいち頼りにならない。
おまけに、ホームは通勤ラッシュの真っ只中で、ものすごく混雑している。
一本目の列車に乗れず、ふたり、次の列車を待つ人たちの列に並ぶ。
「兄貴にお任せで静寂の意識にいたら、このすごい混雑がただの映像に見える。」
と僕が言うと、
「そうだね。設定を見ているだけだからね。」と乙女ののりちゃんが答えた。
ホームに電車が来た。乗る。僕は車両の奥の方の、かなりいいポジションをゲットした。
彼女は彼女で扉付近よりちょっと中らへんのつり革につかまった。
扉が閉まろうとしたその瞬間、意地でも乗ってやる、と鬼のような形相をした人たちが、
どっわーっ!と突進してきて、乙女ののりちゃんをすごい勢いで押しつぶした。
「結局誰も、何も…うっ。してない…のよ、ねえ…ああっ!」
見れば、年季の入ったサラリーマンたちから容赦ないタックルを受け、
彼女の身体が吊革の下で、サンドバッグのようにブランブラン揺れているではないか。
ええーっ。どう見ても何かされているように見えるよぉー。どうしよう。
それでも、兄貴に任せる。間違った狂気の知覚を修正してくださいとお願いする。
すぐに知覚が変化する。もみくちゃなっている乙女ののりちゃんも、
眉間に皺を寄せているサラリーマンの人たちも、疲れたようにスマホをいじっている女性も、
みんなどこかかわいい、ただのハートのひゅんひゅんに見える。
やがて、本当にただのデータなのだと思えてくる。
兄貴、それをどうか消去してください。僕はもうこんなデータは要りません、と呟く。
起きている状況はどうでもいい。もみくちゃにされようが何されようが、
要は起きてないことを知っていればそれでOKなのだ。
そうこうしながら、やっとのことで兄弟てっちゃんが住む街に到着する。
改札を出ると、てっちゃんのパートナー、さおちゃんが駅まで出迎えに来てくれていた。
途中、兄弟てっちゃんとも落ちあった。
再会を祝し、近くの中華料理店でディナーをする。
楽しく、わいわいと夕食を終え、兄弟てっちゃんの車に乗り込む段になって、
「ケータイがないわ。」と乙女ののりちゃんが言い出した。
一生懸命鞄の中を探しまくる彼女。だが、意に反し、ケータイはみつからない。
さおちゃんがのりちゃんの番号に電話してみる。が、呼び出し音のみで応答はなかった。
次に、さっき夕食をした店に電話で問い合わせてみるが、やはり、ない、と言う返事。
地面に鞄を置き、探し続けるのりちゃんに「今、動揺してる?」と僕は意地悪な質問をした。
「バクバクしてるけど、動揺はしてない。」
と意味不明な言葉を口走りながら鞄の中を探し続けるのりちゃん。
「ちゃんと静寂の意識にいる?」再度僕が訊く。「うん。いると思う。」とのりちゃん。
「何も起こってない。っていまほんとうにそう見えてる?」と質問すれば、
「うん。」と断言するように、力強く答えたのりちゃんだったが、
やがて、来た道をもう一度、駅まで歩き直してみようかしら、と言いだした。
ええーっ!
この満腹のなか、あの道のりを再度歩かされてはたまったもんじゃないと思った僕は、
ジーンズのポケットからのりちゃんのスマホを取り出し、はい、と言って彼女に手渡した。
「きゃあー!なんでー?」
と、驚きと安堵が入り混じった叫びを上げる乙女ののりちゃん。
「駅でのりちゃんがてっちゃんに電話したとき、のりちゃんが自分でスマホを地面に
落としたんだよ。全然気づかずにスタスタ行ってしまうもんだから、慌てて俺が拾ったんだ。
すぐに渡さなかったのは、のりちゃんがどんなふうに赦しを実践するか、どうしても
見てみたかったからなんだ。」と正直に白状した。
大爆笑する彼女。
ああ、よかった。泣き出されたらどうしようかと思った。
それから兄弟てっちゃんが僕の耳元で「ないわ。ないわ。」
とずっとのりちゃんの真似をするものだから、今度はこっちの笑いが止まらなくなった。
ごめんよ。のりちゃん。
でも、なんか、かわいかった。
赦してくれて、ありがとう。