↑毛主席の髪型って、よく見るとなかなかシブい。やろうと思ってできる髪型ではない。
と思いながらボーっとしている僕であった。前の人が共産党党書記
今日は深圳工場がある地元の市政府を訪れ、共産党副党書記にお別れの挨拶をしに行った。
午後2時半から4時半までしか仕事をしないので、ピンポイントで訪ねる。
毛沢東主席の肖像画の下で、書類にハンコを押しまくっている副党書記を見ていると、
突然、天城越えっぽいのが押し寄せてきた。
ハンコを押し終えた党書記と、ソファで一緒にお茶を飲みながら雑談をする。
と、そのとき、〝消えるのは自分だ〟という声が聞こえてきた。
次の瞬間、すとんとんとんーっ、と何かが腑に落ちた。
そうだ、消えるのはこの、いろいろと思考している0と1で作られた自分のほうなんだ。
見ている自分が、みられている対象物を見て、ハートのひゅんひゅんを感じている。
おい、ちょっと待てよ。
ハートそのものが自分の筈じゃなかったのか。
ハートの愛そのものが自分なのに、どこか別の場所にハートの愛があるように扱っている。
まるで、自分とはちがう、別物であるハートを感じて、
〝ああ、ハートを感じてるぅーっ!〟と感動しているなんて、そんなん、おかしいやろ。
ハートの方が真実の自分そのものなのに、0と1だけでできた自分が、
そのハートと一体になろうとしている。
ひゅんひゅんを感じて、自分はハートにつながった、と錯覚しているのだ。
そもそも、ハートの自分として存在すると、ひゅんひゅんどころではないはずなのだ。
副党書記の大きなビール腹を眺めながら、もう絶対に偽りの自己を選択しない、と決心する。
偽りの自己を選択しないということは、仕事中でも、プライベートでも、昼も、夜も、
自分で何かを言ったりやったりしない、ということだ。
もう誰が何と言おうと、仕事でどんな局面に陥ろうと、自分では何も言わないし、やらない。
存在しないデジタル設定の自分でやらない。兄貴にゆだねきる。
今まで何度も聞いてきたし、実践もしてきた。
しかし、もう絶対にやらない、と深く腑に落ちて思えたのは今日だった。
逆にいえば、これまで日常で実践してきたからこそ、ストンと来たのだろう。
なんか、設定でできた肉体の自分が自分だと思えなくなってきている。一言、気持ち悪い。
性同一性障害の人なんかは、きっとこんな感じなのだろう。
でも、この0と1の設定でできた自分なんか大嫌い、なくなればいい、というのとも違う。
そういう判断すらやらない。
ほんとうに兄貴がいてくれてよかったあ〜。自分でやらない、と気づいても、
兄貴の存在がなかったら、その先どうしていいかわからなくなるところだった。
それにしても、なんで毛沢東主席の肖像画の下に座っている党書記を見てこうなるの?
兄貴。その導き方、ちょっとおかしいよ。(←と最後の判断)
どうせ、気づくのなら、乃木坂46のまいやんと握手した瞬間に
ぱっ、といい匂いがして、お星様が飛び散り…、みたいな。
次回はこんな感じでお願い。(←バリバリ自分でやってるやんけ!)