香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

目の裏側のスクリーン


↑ スーツ届いた。

新大阪リトリの二日目の夜、飲み会の時に突然、

現実のスクリーンは目の裏側にあった、というとんでもない空想が去来して、

その場でみんなにシェアした。

全くの空想なので、当然ハレ師匠はじめ、みんなから失笑を買った。

もちろん自分でもそんなことはないだろう、とは思うのだが、

なかなかおもしろい発想だな、とも思った。


みんなで飲んでいるとき、その日の講義でハレ師匠が描いた、

映写機から光が出て、前のスクリーンに映像を映し出す、という図を思い出していた。

たしか、自分たちは、この世界に自分たちの罪悪感の象徴を投影してみている、

というような内容だったと思う。

そのとき、ふと、幻想を見ているにせよ、投影しているのであれば、

投影されている薄皮一枚のスクリーンには幅があり、距離があり、

なんらかの空間があるのではないか、と考えた。

しかし、何も起こってなければ、この世界もない。肉体もない。意識もない。

ということは、映し出すスクリーン、も存在しないはず。

そこまで考えた時、ひょっとして、僕たちが見ている映像には奥行きもなく、

べちゃっ、と目の表面の裏側(ややこしいが…)に貼りついているのではないか、と推測した。

世界がないのであれば、そとの映像を眼球で見る、なんてありえない、と想像したのだ。

ひょっとして、この僕らが見ている現実の空間は、内に閉じられているのかもしれない。

もしかすると、目の表面で幻想のスクリーンを見ているのではなく、

映像は目の表面の裏側に映っているのではないか。

イメージ的には、目の裏側に映る、ありもしない映像を見ながら、手足をバタバタさせ、

ひとり、ぎゃーぎゃー言っているような感じだ。

目は、なにか外にあるものを見るものではなく、映像を映し出す点のようなスクリーンなのでは、

と閃いたのだ。

それは、まるで、世界中の離れた場所で、何十億人が、一斉にパソコンの画面を相手に

バーチャルゲームに参加しているような感じに似ている。

眼球が丸く湾曲しているのも、きっと内側のスクリーンとしての役割があるからなのだろう。

僕たちが自分の顔を見ることができないのも、外を見ているのではなく、

眼球の裏側に映る映像を見ているからなのだろう。

そして、光に満ちた神の王国は僕たちの周りを取り囲んでいる。

僕たちは、すでに神の王国の中にいながら神の王国をさまよっているのだ。


とまあ、こんなストーリーだ。いつか、小説に書きたいな。