新大阪リトリの二日目の夜、飲み会の時に突然、
現実のスクリーンは目の裏側にあった、というとんでもない空想が去来して、
その場でみんなにシェアした。
全くの空想なので、当然ハレ師匠はじめ、みんなから失笑を買った。
もちろん自分でもそんなことはないだろう、とは思うのだが、
なかなかおもしろい発想だな、とも思った。
みんなで飲んでいるとき、その日の講義でハレ師匠が描いた、
映写機から光が出て、前のスクリーンに映像を映し出す、という図を思い出していた。
たしか、自分たちは、この世界に自分たちの罪悪感の象徴を投影してみている、
というような内容だったと思う。
そのとき、ふと、幻想を見ているにせよ、投影しているのであれば、
投影されている薄皮一枚のスクリーンには幅があり、距離があり、
なんらかの空間があるのではないか、と考えた。
しかし、何も起こってなければ、この世界もない。肉体もない。意識もない。
ということは、映し出すスクリーン、も存在しないはず。
そこまで考えた時、ひょっとして、僕たちが見ている映像には奥行きもなく、
べちゃっ、と目の表面の裏側(ややこしいが…)に貼りついているのではないか、と推測した。
世界がないのであれば、そとの映像を眼球で見る、なんてありえない、と想像したのだ。
ひょっとして、この僕らが見ている現実の空間は、内に閉じられているのかもしれない。
もしかすると、目の表面で幻想のスクリーンを見ているのではなく、
映像は目の表面の裏側に映っているのではないか。
イメージ的には、目の裏側に映る、ありもしない映像を見ながら、手足をバタバタさせ、
ひとり、ぎゃーぎゃー言っているような感じだ。
目は、なにか外にあるものを見るものではなく、映像を映し出す点のようなスクリーンなのでは、
と閃いたのだ。
それは、まるで、世界中の離れた場所で、何十億人が、一斉にパソコンの画面を相手に
バーチャルゲームに参加しているような感じに似ている。
眼球が丸く湾曲しているのも、きっと内側のスクリーンとしての役割があるからなのだろう。
僕たちが自分の顔を見ることができないのも、外を見ているのではなく、
眼球の裏側に映る映像を見ているからなのだろう。
そして、光に満ちた神の王国は僕たちの周りを取り囲んでいる。
僕たちは、すでに神の王国の中にいながら神の王国をさまよっているのだ。
とまあ、こんなストーリーだ。いつか、小説に書きたいな。