兄弟てっちゃん&さおちゃんち2日目。
朝5時くらいまで語り合ったので、昼過ぎに起きる。
しばらく、うだうだしたあと、兄弟てっちゃん運転の車に乗り、近くの鮮魚販売店へ。
新鮮なお刺身やお寿司やスジコなどを仕入れ、一旦家へ戻って冷蔵庫に入れてから、
さおちゃんが用意してくれたお風呂セットを持ち、兄弟てっちゃんと二人、
来れば必ず立ち寄る銭湯〝はだかの王様〟へ行く。
(さおちゃんは俺たち男の長風呂になんか付き合えないと、居残りを主張…)
途中、これまたいつも立ち寄る〝ねむの木〟という喫茶店に入る。
ここでもぺちゃくちゃとコーヒーを飲みながら話をする。
てっちゃんは主に日ごろの職場での赦しの話をし、僕は僕で、香港での近況を話した。
今の会社での赦しも終わりに近づいていることや、香港に居続けるかどうか、
または小説家として、などなど…。結論はまだ出てはいないが、表現することで、
自然と何かが分かってゆく。
その後、露店風呂になった銭湯で、並んでいる壺の湯にそれぞれが浸かりながら、
開放感に浸る。平日午後の銭湯に人影はまばらだ。走り回るガキんちょもいない。
秋風が吹く露天風呂で、湯に浸かりながら暮れなずむ空を見ていると、
本当に肉体が溶けてゆきそうな感覚に襲われる。
あっ。光の粒子が飛び始めた。もやもやと空間を流砂のように移動している。
〝目の表面の裏側のスクリーン〟がほころびを見せているのだな、と思う。
2時間くらい銭湯でまったりしてから家路につく。
帰りしな、TSUTAYAで『13F』という、パラレルワールドを扱った映画のDVDを借りた。
そして、昨日飲んだワインが美味すぎるという話になり、再びAEONに買いに行く。
ああ、あの昨日の店員さんがカウンターにいるではないか。
見れば、昨日の呼び鈴が遠くによけて置かれてある。
恥ずかしいので、兄弟てっちゃんがレジでワインを購入している間、
僕は背を向けてワインを見ているふりをした。
ああ、1なる存在以外、存在しないのに、この恥ずかしさはなんなんだ? うう…。
夜、新鮮なお刺身とお寿司に舌鼓を打ちながら、ワインを飲む。
この夜、最も盛り上がった話題と言えば、
〝設定である偽物の自分(肉体の自分)も含めて関わらない〟ということだ。
いったん兄貴に任せたら、幻想の設定には一切関わらない。放っておく。
ただ、幻想の設定には、今ここで思考している自分の肉体も含まれている。
と、ここまでは俺もてっちゃんもOK!
ということは、この設定の自分が何を言おうが、何をしようが、真実の自分には影響しない。
だから、他者や物事に関わらないように、自分の行為に対しても、関わらなくていいんだ。
別の角度から見れば、何を言っても、何をしても、言い返しても、ケンカをしても、
真実の自分がやっているのではないのだから、それについては放っておけばいい。
要するに、設定の自分も含めて関わらない。
こんなこと言ってしまった、やってしまった、これをやるべきかどうか、言うべきかどうか、
と考える時点で、すでに設定の自分を自分だと認めている。
この角度が入るとすごく楽になるよね、と兄弟てっちゃんと二人頷き合った。
普段の生活の中で、僕たちはいろいろな行為を行う。
他人に何かを言ったり、判断したり、または何かを言われてびゅんびゅんしたり…。
しかし、それを行っているのは設定の自分だ。そこまではわかっていた。
びゅんびゅんが来るたびにそれを〝無い〟として、赦してきた。
ただ、これからは、赦そうとしている自分も含めて設定なのだ。
赦そうと思う時点でもう設定(意識)の自分を自分だと認識してしまっている。
本当の自分は、日常で〝それ〟を行っている行為者ではない、という真の自覚があれば、
「バカ!」と言おうが、おばちゃんと電車の座席を取り合おうが、構わず放っておけばよい。
そう述べると「じゃあ、どんな悪い事をしても放っておくのか。」と訊く人がいる。
だが、僕は思うのだ。
すでに、ひとつの神しかない、という世界を掴んだ人であれば、
設定の自分が人を傷つけたり、破壊したりするような行為をするはずがない、と知っている。
ただ、赦しは出てくる。
関わらなくても〝びゅんびゅん〟は出てくる。それは兄貴に任せて赦せばいい。
この日も、こんな感じのことを、朝五時くらいまで語り合った。
さおちゃんは良いタイミングでつまみやお菓子を継ぎ足してくれ、
会話に加わりたいときは加わり「さあ、もう今日はこれくらいにしときなさい。」
というところで、さっと布団を敷いてくれるのだ。
さすが九州の女性。男を手のひらで転がすのが本当に上手い。(笑)
そして、兄弟てっちゃんは転がされていることに全然気づいていないのだ。クッ、クッ…!