今日、久々にお手伝いのチョイ姐に会った。
彼女は普段、僕が出勤している昼間にやってきては、
家の事をいろいろやって帰ってゆくので、ほとんど会うことはないのだが、
今日は何か政府関係の証明書にサインがほしいと、僕を訪ねてきたのだ。
そのとき 「最近、お酒の量が減ったみたいだけど身体でも悪いの?」 と訊かれた。
と言うのも、チョイ姐が僕の家に来てくれるようになって12年、
彼女はずっと僕の好きな銘柄のワインを切らさないよう、
常に数本の予備を買い置きしてくれていたのだが、
ここ最近、そのワインをほとんど飲まなくなり、買い足す必要がなくなったため、
一体どうしたのか、と訊ねてきたのだ。
そりゃそうだ。以前は1日1本は空けていたのだから、彼女が不思議に思うのも無理はない。
もうお酒が好きではなくなったのだ、と答えると、
「じゃあ、これからはお茶をたくさん飲みなさい。おいしい鉄観音を買っておくから。」
と言い残し、帰って行った。
ほんとうにありがとう。チョイ姐!
今日は昼からずっと創作活動をして過ごした。
新作と、今度出版する本の改稿と、『ジンジャー・タウン』の3作を同時に書く。
一つの作品だけをやっていると、すぐにほかの事(テレビや映画やネット)
に気が行ってしまい、結果、だらだら過ごした末、何も書けずに終わってしまうからだ。
でも、やりたいことをしながら過ごす時間は、すごく平安に満ち、落ち着いていて、楽しい。
それにしても、やりたいこと、やりたくないこと、とはどういうことなのだろう。
僕は毎日会社で仕事をしているが、その業務の全てがやりたいことかと訊かれると疑問だ。
かといって、全部がやりたくないことかと言われれば、そうでもない。
ただ、会社の仕事のほとんどは、指示や方針に沿って行わなければならない。
でも、これは起きてない、兄貴に任せて関わらない、ということを実践し始めたとき、
「これをいついつまでにやってください、あれをこういうふうにやってください。」
と指示が来て、それがやりたくないことだった場合、どう答えるかに迷ったことがある。
他者がやったり言ったりすることは〝そんなの起こってない〟とすんなり赦せるのだが、
自分の判断に対しては、それは起こってない、と簡単には言えなかったりする。
兄貴に全託をして、自分は受け身で何もしないと決めているのに、
現実には、やるか、やらないかの選択に迫られ、兄貴からも明確な返事は来ない。
こういうときは〝エゴの自分がやりたいようにさせる〟ことにしている。
考えているエゴの自分も起こっていないので、そんな自分も他者同様、
好きなようにやらせて放っておく。
起こっていない自分が喧嘩しようが、断ろうが、嫌々引き受けようが、そんなのどうでもいい。
起こってない自分がやっていることに罪はないし、光の子の自分とは何の関係もなく、
行為者そのものではない。
エゴの自分が喧嘩していても、イジイジいじけていても、嫉妬していても、ホームレスでも、
そんなのとは関係なく、本質がハートの愛でひゅんひゅん悦んでいる状態でいたい。
しかし、それとは別のレベルで、もう今の設定とお別れすべき時が来ているのも感じている。
東南アジアの、インターネットもないどこか田舎の街で、創作をしたいと思ったり、
あてもなくさすらいの旅に出たいと思ったりする自分が、最近頻繁に顔を出す。
設定がどうなってゆくのか、兄貴に任せるしかないのだが、
どうしても、今の設定のシナリオが変更されてゆく感じがすごくする。
ただーしっ!
兄貴ぃー!お願いだから、全てが崩壊して、ネガティブびゅんびゅん全開で、
えっらい目に遭いながら変更されるのだけは勘弁してくれ!
もう、そのへんのところはさあ、ちゃんと分かってるからさあ、ホンマ頼みますわー。
年も年やし、あんまり手荒なことはしないでおくれやす。(なんでそこだけ京都弁やねん!)