高倉健さんが亡くなられた。
本当は亡くなってはいないのだけれど、肉体は無くなった。
この報をワイドショーで見たとき、僕の中に、ある感慨が去来した。
〝なあんだ。いくら名声をほしいままにし、みんなから尊敬され、好きな仕事をしていても、
やっぱり最後はこうなるんじゃん!〟
逆に言えば、やりたいことを我慢し、好きでもない仕事をしながら、
人の目を気にして生きていても、やっぱり最後はこうなるんじゃん! ということだ。
そして、数か月もすれば忘れ去られ、消えて行ってしまう。
僕はもう、前者も後者も望まない。
隠ぺいしているすべてを削除し、終わらせ、一刻も早く、いち抜けしたい。
誰も何もしてない→肉体の自分も何もしてない→ゆえに罪はない→神の愛しかない
全てのシチュエーションに、徹底してこれを適応し始めてから、
胸のひゅんびゅんが止まらなくなった。これはマジできつい。
びゅんびゅんどころではなく、ぎゅんぎゅんだ。
それはちょうど、ハッピーひゅんひゅんと、
ネガティブびゅんびゅんの先をゆくくらいの感覚で、
別に何もないのに、みぞおちのあたりでずっとざわざわしている。
特に、神の愛だけを感じさせてください、ととなえると一層強烈に来る。
わけもなく、軽いうつ状態、軽い不安状態が、ずっと持続し、
大失恋したあくる朝、みたいな切なさにずっと襲われるのだ。
からくりが全部わかっているのに、
まだここに居続けなければならない絶望感に絶えずさいなまれる。
これって、キツイ。
エゴの逆襲なのかもしれない、とふと思う。
僕が完全に兄貴のほうへ行ってしまったので、
エゴはもう、僕に対して友達の振りをしなくなったのかも、と。
それとも、これはハートそのものなのか。
どう扱っていいのかわからないからきつい。
ただ、無視して、聖霊に〝神の愛だけを感じていられるようにしてください〟と依頼する。
どんなにこの現実での成功を手にしたって、神の愛を感じていなければ意味がない、
と高倉健さんの死の知らせを聞いて思った。
もちろん彼が神の愛を感じていなかった、ということではない。
今の自分は、神の愛だけを感じていられるよう、それだけを依頼している。
あれ?ひょっとして、このぎゅんぎゅんがすでに神の愛で、
自分が勝手に嫌なモノとして知覚しているだけ?
という事は、僕は神をこんなにもぎゅんぎゅん恐れているのか?
ぐえーっ、ぎゅんぎゅぎゅぎゅーんっ!