香港では今日も普通の平日なのだ。
でも、僕は休みなのだ。
昼から、お手伝いのチョイ姐が、
ソファのカバーを換えに来るというので、
その間、外出することに…。
2週間ぶりにジムへ行き、2時間たっぷり筋トレした後、
喫茶店でいつものように『奇跡講座』を読んで過ごす。
演歌同盟から配信されてきた『藤圭子ベスト』
を聞きながら、その合間に奇跡講座の第5章を読む。
♪ 何度もあなたに泣かされた
それでも、すがった、すがってた
誠尽くせば、いつの日か、
わかってくれると信じてた
馬鹿だな、馬鹿だな、だまされちゃって…♫♪
そこへ
「私は、神の子の誰もが苦しむべきではない
ということを、神と共に意志している。」
という言葉が重なる。
この藤圭子と奇跡講座とのギャップが…もう。
ああ、なんともたまらんっ!(アホかっ!←by兄貴)
今日読んだ中で僕の中に深く入ったのは、
「兄弟の心の中に居る聖霊を通じて彼を見なさい。
そうすればあなたは自分の心の中に聖霊を認識する。
もしあなたが自分自身の中だけに聖霊を探す
という間違いを犯すなら、あなた自身の想念が、
あなたを怖がらせるだろう。」というくだりだった。
なんだか、これまでの自分は、
自分の中に在る聖霊だけを通じて、
相手を観てきたような感がある。
兄弟の中にいる聖霊と交流することが、
真のコミュニケーションなのだな、と腑に落ちた。
それから、赦す前に自分に深い肯定を与える
って大切だなあ、と今日、ふと思った。
僕はこれまで、大病をしたこともなければ、
持病で苦しんだ経験もない。
女性特有の痛みを知っているわけでもないので、
よくわからないのだが、ただ、風邪や腹痛など、
普段みんながかかるような病気の場合、
医者へ行けば治る、という漠然とした信念はあり、
それならば、医者に行って、薬飲んで、さっさと治そう、
という発想である。
まあ、赦せばいいのだろうが、痛いし、苦しいし、
医者で治るんなら、まあいっか、という感じだ。
肉体はない→故に病もない→兄貴に渡す→沈黙
痛くて苦しいときにこれをやると、
どんどん思考のほうに行ってしまう。
「まだ結果が出ない。」とどうしても考えてしまう。
そんなときは、赦さなくていい、と思っている。
だって、痛いんだもん。赦してる場合じゃない。
すぐに医者に見せ、薬を飲めばいい。
いつか、兄貴がうまくセッティングしてくれるのだし。
というのも、僕が赦しを行なう際、
その根底には、神からの深い癒され感がある。
自分に対して「大好き!」と言える肯定感だ。
たとえば、すっごく大嫌いな人がいるとする。
もう、一生赦したくないほど憎い相手だ。
そんな時は、無理に赦さない。
それより、まず、自分を内観し、それを分かってやる。
〝だって、いくら幻想で、なにも起きていない
と言えども、この人は、
一生恨まれても仕方がないような仕打ちを
自分にしたんだもん。
それで自分はこんなに傷ついているんだもん。
本当に辛くて死にそうな思いをしているんだもん。
怒りを持つのは当然だよ。〟
こう叫ぶ自分を無理に否定せず、耳を傾け、理解する。
このとき、あくまで相手にではなく、自分に集中する。
十分に受け入れた後、そっと兄貴に渡してゆく。
しかし、ついつい
心の底の底で、膝を抱えてうずくまっている
傷ついた自分の声を聞く前に、
〝いや、これは起こってないよ。〟
〝こんな相手も存在しないよ。〟
〝兄弟を神の子として以外には見たくないんです。〟
〝兄貴、この間違った考えを修正してください。〟
〝でも、またエゴを選んでしまう自分をバシバシ!〟
とやってしまう。
ずっと以前、鏡に映る自分の顔を直視し、心の底から
「 I am loving you! 」と言ってみたことがある。
言った途端、わーっと涙があふれ、
それから何時間か泣きっぱなしだった。
例えは悪いが、それはまるで、
わが子を虐待している母親のごとく、
自分はこんなにも、自分自身を無視し、
ないがしろにし、痛めつけ、傷つけてきたんだな、
と痛感した瞬間だった。
それでも、自分のインナーチャイルドは
ズタボロになりながらも、すべてを受け入れてきたのだ。
まずは、ちゃんと自分の痛んだ心を
〝よしよし〟と癒してやる。
そして「ごめんなさい。」と謝り、
最後に「愛しているよ。」と宣言する。
赦しはこの自分への肯定感を土台にして
実践され、受け入れられてゆくのだな、
と感じた。
まあ、これは他責型の僕の場合のことなので、
他の人には当てはまらないかもしれないが、
感じていることを書いてみた。
ありゃ。新年からまた脱線しちゃった。