その彼は2週間くらい前から、
毎朝、僕が通勤する通りの地面に横たわっていた。
最初、彼を見かけたときは、服も髪も清潔で、
ちゃんと表情の動きもあった。
だが、日に日に服は汚れてゆき、
やがて横向きに寝転がったまま、
動かなくなってしまった。
香港や中国では、
ちょいちょいこういう人を見かけるので、
皆、さほど気に留める風でもなく通り過ぎてゆく。
通報して、行政が動き出す、ということもない。
昼休みに、ジムへ行く時にもその道を通るのだが、
そのときにはいなくなっているので、
多分、どこかへ移動しているのだろうと思っていた。
僕は毎朝彼を見かけるたび、
ずっと、勘違いの世界を明け渡し続け、
自分の中だけで起こっている世界を否定し、
上がってくる罪悪感を信じない、
と兄貴に渡し続けていた。
しかし、今週に入ってからは
昼休みに通る時にも移動をせず、
そこに倒れているようになった。
これはちょっとヤバいんじゃないか、と思い、
何を思ったのか、僕は彼に近づき、
肩をトントンと突ついてみた。
彼が目を開け、さっと身体を反転させた。
僕はちょっと安心して、
それから100香港ドル紙幣を1枚取り出し、
彼のふところに置いた。
彼はちょっと目を開けて僕を見たが、
僕はなんだかすごく恥ずかしくなって、
そそくさと逃げるようにその場を離れた。
その日一日、ずっと「何も起こってない」と、
設定削除を兄貴に依頼し続けながら過ごした。
兄弟はずっと完璧な神の子だ、何の罪もないのだ、
見えているこれは、みんなウソなのだ、と…。
昨日、今日、となぜか彼の姿を見ていない。
彼はいなくなっていた。
だからと言って、明け渡しが完結した
というわけではないが、ホッとしたのは事実だ。
ここ数日、人とコミュニケーションをとる際、
正面と正面でやり取りしてる感がなくなりつつある。
比喩的に表現すれば、
〝あなたのうしろ〟と〝わたしのうしろ〟どうしで、
会話しているような感じなのだ。
なんだか、空間が意味を成さなくなってきた。
とにかくもう、差し出されたものを
ただ、兄貴に返してゆくだけだ。
だって、僕はもう今回で終わりたいのだから…。