香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

世界はない



今日は大雨。出勤しようと乗り換えの駅まで到着したら、

急に吐き気を催し、吐いてしまった。

幸い、電車を降りたすぐ前にゴミ箱があり、

皆様にご迷惑を掛けずに済んだ。

で、今日も会社へ行けなかった。


総経理(宇宙人ヲタの)に電話をすれば、

ケリーも、シッピングのユイも体調不良で休みだという。

総経理も出張のため、結局、今日の香港事務所は、

学級閉鎖(会社の場合なんて言うのだろう?)となった。


吐いたあとは、喉が痛くて咳が出る程度だったので、

豪雨を避けようと、コーヒーショップで休憩しつつ、

まあ、それも〝起きてない〟と赦しながら、

設定が通り過ぎるに任せていた。


ぼーっ、と通りを眺めながら〝世界はない〟について

考えてみた。


最近、赦す際、

〝世界はない〟より〝起きてない〟の方をよく使う。

赦すべき兄弟と対峙したときも、

〝罪はない〟より〝あると思っている罪が消えつつある〟

のほうでやる。


幻想とはいえ、まだ肉体を持っている僕たちは、

いきなりビンタを張られたら、

やはり「イタッ」となるわけで、そんなとき、

〝世界はない〟と言われても、すぐには、

「ああ、世界はないのね!」とはなりにくい。


世界はない…。

もちろん、この言葉は究極の真理だ。

赦しの最後は必ずここにたどり着く。

だから、世界はない、のひとことで、

すぐにそこへ行ければ、全く世話はないのだが、

知識ではなく、本当にそこへたどりつくには、

ある種の方法論が必要だと思うのだ。


ときどき、マスターの人や赦しを実践している人の中で、

誰かがシェアをしたあとに、取ってつけたように

「まあ、結局世界はないので…。」を連発する人がいる。

持っているものを出しあい、明け渡す過程では、

様々な日常の事象をシェアすることは非常に重要だ。

すでに〝世界はない〟を前提にシェアしている相手に、

「世界はない。それだけなんだよ。」と告げるのは、

少々乱暴に感じてしまうのは僕だけだろうか。


そもそも、その相手も自分が投影しているのだから、

〝世界はない〟と告げ、粛々と赦すのは、

相手ではなく自分であるはず…。



と、閑話休題。

体調を崩し、復調してから、

幻想のスクリーンの見え方が変化してきている。

エゴの設定を聖霊に返す際に、

これまでは、01の設定を常に、

自分の背後側(斜め後ろ側)に飛ばしていたが、

最近は、眼前のスクリーンの向こう側に

実相世界(ハート)を見るようになり、

明け渡す時は、背後ではなく、

眼前のスクリーンをばっと突き破って

裏側にある実相の世界(ハート)に出るようになった。

その方がすぐにスクリーンが光で薄くなるし、

大そうなウツボカズラ大放出も必要ない。


幻想のスクリーンで何が起きていても、

薄皮をの裏側にあるハート(実相)が透けて見えるので、

現実があまりリアル感が持てなくなってくる。

もちろん、どんなときでも、と言うわけではけれど…。


明日は会社行くよ!