↑病み上がりのため、お刺身とサラダ。
長期の微熱が収まり、やっと体が回復した。
地球はアセンションに向け、かなりの波動上昇を
しているらしく、肉体にも影響が及んでいるらしい。
ということで、
この土日は、ちときつかった。
次々と湧き上がってくる強烈な憂鬱感や不安感を、
ずーっと聖霊に明け渡し続けていた。
きっかけは、会社に対する違和感であったが、
それが根本原因でないことは解っている。
認識する→捧げる→差し出す→放つ
僕の明け渡しはこんな感じ。
まずは、みぞおちの憂鬱感を認識し、
それを、消えてゆく姿と見て聖霊にささげ、
次に、対象に向かって、愛を差し出し、
あとは、ハートの光の中で日常を過ごす。
起きているように見えている事象を
〝無い〟と捉えるより〝消えてゆく姿〟
として観たほうが、僕の場合は捧げ易い。
それと、ハートの光を意識しながら生活することで、
〝いま〟と〝実相〟を常在させやすくなる。
ただ、うまくできる時もあるし、そうでない時もある。
で、この土日はずっと、こみあげるびゅんびゅんを、
〝消えてゆく姿〟として観ながら神に捧げていた。
それでも、不快感は次々やってくる。
差し出されていることが分かっていても、苦しい…。
しんどさのあまり、兄弟てっちゃんにSKYPEした。
このままここで赦しをし続けることによって、
聖霊の自然な導きを待つのか、それとも、
もうここではないよ、と感じる違和感に従うのか…。
はやく終わらせるには、ワクワクに動いて、
〝やっちゃった族〟になったほうがいい、
という話なんかを二時間ほどした。
いつも思うことなのだけれど、
このみぞおちに感じる気持ち悪さって、
強弱があるだけで、一種類しかないんだね。
誰かに嫌なことを言われたときも、
お金のことで不安感にさいなまれているときも、
失恋してため息ばかりついているときも、
大切な人を亡くしたときも、なんのことはない、
ぜんぶ〝コレ〟。一種類の感じ方だけなのだ。
この感じ、どんなに究極のことを体験していても、
ようく真正面で感じてみると、
ただ、みぞおちがびゅんびゅんしている、
たった、これだけ、でもある。
そして、
このひとつの〝勘違いびゅんびゅん〟こそが、
今の自分が神に抱いている〝想い〟だった。
2年前、橋本リトリで、ハレ師匠が、
「目の前にいる兄弟は実は神なんですよ。」
と言っていたが、本当だな、としみじみ思う。
兄弟たちが、僕の中にずっと隠蔽してきた
〝神に対する想い〟を引きずり出してくれている。
父が待つ故郷に永遠に帰ります、と決めた途端、
神扮する兄弟たちが、総力をあげて、
いろいろやり始める。
ある一人の兄弟を嫌悪しているとき、
神を嫌悪している。
兄弟に恐怖を感じているとき、
神を恐れている。
誰かを攻撃したり、誰かのせいにしているとき、
神を攻撃し、神に罪をなすり付けている。
本当は神から離れたことなんかなく、
今でも自分は神の子として神から愛されている。
なので、今日は、
相対する兄弟を神の代弁者として接した。
なにかをしたり、言ったりするわけではないのだが、
兄弟には愛しか差し出さない、と決めて過ごした。
ひとつひとつのメール、ひとつひとつの会話、
見るもの触れるもの全てに消えゆく姿を観ながら、
業務をこなした。
昨日の多次元宇宙の番組がようつべでアップされていた。
みてちょ!
仕事に対する違和感はについては、明日のブログで…。
やっちゃった族、万歳!