中国春節休みに伴う一時帰国の稟議が下りた。
今回は祝日の並びがよいせいか、トータルで
20日間もの長期休暇が取れることになった。
せっかく長い休暇が取れたので、
なにか、思い切ったことをしたいな。
会社が費用を負担してくれるエアチケットは、
日本往復分に限られるため、外国には行けない。
(自腹なら別だが、そんなお金ないし…。)
日本でできる、思い切ったこと…。うう、何だろう?
まあ、ゆっくり計画を練るとしよう。
数日前の記事でも書いたが、
人間を見た時に感じる〝しゃべる爬虫類感〟は、
日増しにリアルさを増しつつあり、今朝はとうとう、
地下鉄で、じぃーっ、と自分と周囲を観察してた時、
今まで、自分だと思ってきたこの肉体の正体って、
ただ五感によって感じている感覚だけのものだった、
ということに、ハッ、と気づいた。
このブログを書いている自分、仕事をしている自分、
ご飯を食べてる自分、一時帰国の計画を練る自分、
これ、全部、身体的感覚でやってるだけで、
名前を付けたり、性格を持たせたりして、いかにも
それらしく見せたりはしていものの、自分ではない。
〝気づき〟〝悟り〟でさえこれでやっている。
見えたものや聞こえたもの、皮膚の感触等によって、
あらゆる生物的反応や身体的動きが生み出され、
結果、心臓の鼓動、呼吸、血液の循環などが、
速くなったり遅くなったりしている。
これは他者に対しても同じことが言える。
電車で新聞を読んでる男性、電話しているケリー、
気づきについて語っているてっちゃん、これは全部、
身体的感覚がリアクションしている結果である。
これ、自分じゃない。本当の自分はここにはいない。
これ、彼じゃない。本当のあの人はここにはいない。
決断の主体でさえ、真実ではない。
本当の自分や他者なんて、はなから無かったんだ!
〝ただそれが起きているだけ〟というのでもない。
〝それ〟はもともと起きてもいないし、関係ない。
なので、
旧正月の休暇は何をしよう、あれやって、これやって、
と、やっている自分を、自分だと信じて、
否定する必要もない。
ああ、もう、何といえばいいのか…。
神しか、ない。