香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

殺意の世界



雨の日曜日。今日は1日書斎で過ごした。

台湾向け小説を中国語に翻訳する作業に集中した。

自分で書いた小説だけど、中国語へ直す作業は楽しい。

ちょっとエッチなシーンとかもあり、

これを全部漢文で表現すると、かなりエロい。(笑)


年末ということもあり、

来年のアセンション情報があちこちで飛び交っている。

中でも、バシャールの情報はかなり具体的で、

中国の経済破綻の確立が90%で、中国の崩壊に伴い、

アメリカ経済も2016年秋に78%の確立で崩壊し、

そこから地球は、一気に次元上昇してゆくのだという。

バシャールがここまで具体的に話すのは珍しい。

どちらにせよ、2016年秋には注目、というところか。


数か月前の自分であれば、2016年の秋に向け、

波動を上げるワークをやってみたり、

ワクワクに行動して素の自分を表現してみたり、

食料や現金を備蓄してみたり、と、

様々な準備にいそしんでいたことだろう。


だが、この自分自身が単なる〝投影の結果〟であった

ことが、はっきりと見えて以来、

幻想の自分にできることは、はなから何もない、と、

手を挙げて降参状態にいる。


ただ、アセンションというのは、

決断の主体がエゴから兄貴(神)を選択し始めた

結果なのではないか、とも考えている。

だから、もしアセンションに向け、

個の自分にできることがあるとすれば、これまで通り、

全てを明け放してゆくことだけなのだ。

このクリスマス休暇中、コースのテキストの中にある

〝混沌の法則〟という章を読んでいると、

ちょうど〝のり講義〟でも同じ所を解説していて、

結果、何度もこの箇所ばかりを学ぶ羽目になった。


1)全ての幻想には差があり人は皆個別の想念を持つ。

2)誰もが必ず罪を犯すはずであり、したがって、

  兄弟は皆、攻撃と死を受けるに値する存在だ。

3) 神の子は常に神から罰せられると信じている。

4)自我は自分で獲得したものだけに価値を置き、

  自分が獲得したものは自分が所有する

  という信念をもとに行動する。

5)自分がかかわる全ての関係性には、

  兄弟の肉体の中に隠した、自分の敵意が生んだ

  愛の代替をつかみ取り、自分のものにする

  という目的が含まれている。


なかなか難解だが、

要するに、自分は24時間、無意識のレベルで、

隙あらば全ての他人を殺したいと思っている、

ということだ。

どんなに愛おしい、愛の関係であっても、

愛が憎しみへと容易に変化するように、

エゴを選択した結果の世界では、

必ずこの抹殺の法則が根底に潜んでいて、

エゴを選択した決断の主体も、この法則に基づいて、

ピコピコやっている。


スワット隊長の僕でも、この章は正直きつかった。

戦争や反社会的活動、犯罪、個人的な争いや喧嘩、

だけではなく、全ての社会システム、人間関係、

愛のように思える行為のひとつひとつが、

殺意を根底にして行なわれているなんて…。

狂ってる。

だけど、みんな、自分が狂ってるとは思ってない。


周囲の人々がみんな殺る気満々に見え、怖くなる。

決して奢り高ぶった意味からではなく、

混沌の法則に支配された催眠集団の中に、

正気に戻りつつある自分が独り…という感覚。

ハリウッドのサイコ映画の実写版張りに怖い。

やるせなく、巨大な虚無と鬱に飲み込まれそうになる。


でも、こういうとき、聖霊兄貴がいてくれてよかった。

冷静に、決断の主体へと、この馬鹿げた考えを戻し、

もうこんな世界まっぴらなんだ、

この間違った誤りを削除して下さい、と、

エゴの考えから聖霊兄貴の考えに選び変えてゆく。


殺意を持って挑んでくるように見える兄弟が、

助けを求める幼児の叫びのように見えてくる。


でもだめ。数が多すぎ!

次々にやってきて終わらない。

一体、いつまでこの状態が続くのか。

兄貴、せめて、共に歩める兄弟を何人か、

僕の身近に遣わしてほしい。心底お願いしますよ。


でもまあ、これが休暇中でよかったあ。

仕事中にこの状態になっていたら、

もう、プチ発狂してたかも…。

なぜなら、エゴの代名詞ともいえるこの混沌の法則を、

仕事という大義名分の下、堂々とゲームのように

行使している場のひとつが会社だからである。


だが、いま、

最初は個の自分が一生懸命大放出していた段階から、

決断の主体を発見して、そこから明け渡すようになり、

そしてとうとう、エゴのからくりの根底を直視し、

兄貴に解体してもらおうとしている。

よくぞ、ここまで来ました。

感無量である。


兄貴に高みへと引き上げてもらい、

戦闘を高みから見下ろすのだ。