本格的に体感し始めている。
連休で暇だったので、1回整理しておこうと、
全く絵心がないにもかかわらず、
どんぶり鉢やコップを駆使して、図を描いてみた。
AさんとBさんの背後にある神や聖霊は、
図式上二つ書かれているが、同じひとつのものである。
Aさんは、幻想の空間上では、Bさんと向かい合い、
話をしたり、仕事をしたり、食事をしたりしている。
もちろん全てのコミュニケーションは、
前向きの矢印で行なわれている。
例えば、AさんがBさんから「アホ!ボケ!カス!」
と言われたとする。普通なら「何だと!バカ!」と、
前方に見ているBさんに言い返すところだが、
そこで、これは嘘だと気付き、一歩踏みとどまって、
言われた時に出て来たびゅんびゅん(知覚の歪み)を、
決断の主体へと戻し、これは全部ウソなのだ、と、
聖霊兄貴へ明け渡すと、兄貴はその歪みを修正し、
正常な神の愛(ハートの想念)へと変換させる。
そして、修正されたはハートの想念は、
相手(Bさん)を通して、光となり、立ち顕われる。
それは、肉体の目では、Bさんが投影されている
幻想スクリーンの奥からこちらへ向かって放たれる。
要するに、Aさんが赦せば、背後のB’さんを通じて、
幻想のBさんの背後から神の愛が顕われる。
これが〝目の前の全てに愛を感じる〟の正体である。
決して目の前の物体(肉体)に愛を感じるのではない。
相手の聖霊を通して相手を観る、
というのも、また、これと同じ原理である。
ぜーんぶ背後の世界(見えない世界)で行われており、
前方の仮想空間に映る起こった後の結果を見てるだけ。
これが〝ここ〟ではなにも起こっていない、
の真の意味である。
また、
BさんがAさんの背後に存在しているということは、
Aさんの内部空間に存在しているということなので、
ふたつは同じもの、つまりBさんとAさんはひとつだ、
ということになる。
ただ、エゴが作り上げた仮想空間の中では、
前と後ろが、映写機のレンズのように反転している為、
後方にいるBさんを前方に観てしまっているので、
知覚も顛倒してしまっている。
これが、後ろの正面、の真相である。
こうしてみてみると、
普段僕たちが生活している前方の幻想空間は、
背後の世界に比べれば、点ほどの矮小な空間と言える。
自己と他者は背後で繋がっており、そういう意味で、
背後には他者が見ている空間が広がっているのだ。
AさんはBさんを目の前に見えているけれど、
本当は背後のB´を正面に幻想としてみている。
自分の背後にはBさんが見ている風景が広がっている。
これが、他者は自分だ、の原理である。
そして、兄弟の心の中の聖霊を通して彼を観る、
というのも、背後同士で交流するということを意味する。
肉体の彼が、前方の矮小空間で何をしようと関係はない。
前方に見えている全ての肉体は、
変てこりんな着ぐるみを着た、不思議生物に過ぎない。
それ自体に本当の生命はない。
全てを明け渡し、在ると思っている罪悪感を
取消してゆけば、最後は投影自体が起きなくなり、
僕たちは神へと帰ってゆく。
で、僕は、もう、
今回限りで〝娑婆におさらば〟しようと考えている。
あしたに、つづく…。