↑今日はマカオのとなり、珠海の会社へ出張でした。
なんか、きれいだけど殺風景で寒々しい会社だった。
この週末、重力について考えてみた。
いまにいて、些細な思考の動きを決断の主体へ戻し、
兄貴へ渡したあとに起きる上昇感や、
周囲の景色が波のようになっていくような体感は、
どこか無重力的だなあ、と思っていると、
重力というのは、物を落下させているだけではなく、
僕たちの精神をも落下させ、この空間の中に閉じ込め
ているのだな、ということに気が付いた。
重力という言葉から受けるイメージを列挙してみると、
落下、幽閉、抑圧、硬い、収縮、重量、などがあり、
更にそこから、軍隊、別個に固まる、鉄、権力、企業、
などという言葉が連想されてくる。
そして、上記に挙げた言葉は、全部エゴ的だなあ、と
思っていると、本当は重力が先にあるのではなく、
僕たちの意識が重力を造りだしているのだ、
ということを改めて確信した。
突き詰めてみると、僕たちの〝見て感じる〟という
行為自体が重力を生み出し、陽子や中性子などの
素粒子をギュッと収縮させ、この幻想世界に、
さまざまな物質や肉体を具現化させて見ている。
その〝意識の落下〟が重力(エゴ)を助長している。
それでは、重力を消すにはどうすればいいのだろう。
それには、意識の方向性を逆向きにする、すなわち、
物質側(前方)に落ち込んでいる視線(意識)を、
後方へ戻してゆく作業が必要となってくる。
それが、上昇する、ということなのだと思う。
真の上昇は天の方向ではなく、後方にある。
重力と、いまに存在することと、一体どんな
相関関係があるのかを知りたくて、久しぶりに、
エックハルト・トールの本を読み返してみた。
そこに、
「幻は幻と認識すれば消える。幻の認識はまた、
幻の終わりでもある。」 という一文を発見した。
今の自分が見ている風景、起こっている事柄、
自分が担っている役割、込み上げてくる思考や感情、
これ全て幻想で、無だったんだ! 罪もなかった!
そう認めるだけで、それらは消える、と言うのだ。
敢えて付け加えるならば、その無の認識さえも、
明け渡してゆく。
「誰かが悪いと決めつけて喜ぶ〝私〟がいる。
エゴに反応しないのは、弱さではなく強さである。
反応しないとは、赦すことだ。
赦すとは見抜くことである。
エゴを通して全ての人間の核心、
本質である正気を見抜くのだ。」
いま、目の前で起こっていることをよく見つめること。
それから、よく明け渡すこと。
エックハルトは、認識すればエゴは消えるというが、
実践していて、やはり、ちゃんと兄貴に明け渡し、
自分と切り離す、という作業が必要だと感じる。
↑夜は同僚と湖南料理を食べながら、
お化けや宇宙人の話に花を咲かせた。
今日の出来事である。
いつもは出張の車の移動手配は、
メールで直接人事部に頼むのだが、
今日はネットがない場所にいたのと、
人事部長が休んでいたので、
ふぁちゃんに電話で直接頼んだ。
それからまもなくして、休みの間、
人事部長の代わりに総務を見ている製造部長から、
「勝手に自分の部下を通して手配されては困る!」
とすごい乱暴な言葉のメールが届いた。
わわわぁー、ときた。
以前なら、速攻10倍返しだ。
だがこの時、エゴに反応しない、
という言葉を思い出した。
それに、ああ、これは夢だった、ということも…。
とりあえず「すみません。以後気をつけます。」
とだけ、返信しておいた。
しばらくすると、平安とともにハートが戻ってきた。
さっき言い返していたら、相手の返事が気になり、
もっとびゅんびゅん来てたかもしれない。
明日は広州、行ってきます。