日本滞在中、兄弟てっちゃんちで受け取った。
どうしても休暇中に日本で受け取りたかったので、
ハノイの宝石商佐藤氏に依頼して、
てっちゃんちの住所に直送してもらっていたのだ。
前回は職人さんのミスで、
ぺしゃんこマカバになってしまっていたが、
今回はきれいなマカバに仕上がっていた。
↓↓ マカバに関する過去ログご参照願います。↓↓ぺしゃんこマカバ - 香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー
ルミネの手芸店でチェーンと留め具を購入し、
てっちゃんにネックレスへと加工してもらった。
このマカバ、なんかいい感じ。
最近、あまりアクセサリーは身に着けないのだが、
このペンダントはなぜかすごく気に入ってしまい、
24時間、お風呂のときもずっと着けている。
今に在ることと、聖霊と共に在ることは全く同じだ、
ということを、昨夜、深く理解した。
ヴィパッサナーで、呼吸や観察の瞑想法を学んだが、
それも今に在る(聖霊を選ぶ)ための訓練だったのだ。
そうやって長時間、スワットで今に在り続けた結果、
聖霊兄貴とのダイレクトな回路が開き、
アクセスが可能になったのだろう。
例えば、朝、会社へと向かう道を歩いているとき、
頬にあたる冷気を感じたり、
道行く人々の表情を眺めたり、
地下鉄の車内放送の声に耳を傾けたり、
カフェから漂うコーヒーの匂いを嗅いだりすることを、
人生の主要な目的とみなし〝それそのもの〟でいる。
また、
今日起こるであろう仕事上の厄介事について考え、
胸の辺りがざわざわしていたら、
そのざわざわそのものでそこに在る。
日常で胸がびゅんびゅんするようなことが
発生したとしても、今に在り続けることで、
自動的に兄貴へと委ねられていっている感じがする。
こうして〝いまこの瞬間〟に留まっていると、
同僚に放つ一言や、書類をめくるという、
何気ない行為の中に神が立ち顕れてくる。
また、相手が話す言葉や、
雑然と置かれた机上の文房具を見るだけで、
感謝と慈しみの感情がわわわ、と立ち上がってくる。
↑佛山の日本料理店で出された刺身。
ただし、これはサーモンではない。
サーモンそっくりな淡水魚だそう。
あっ、そうそう。
感謝と慈しみと言えば、
今回、佛山工場に、新しい工場長のT氏が入社してきた。
このT氏、57歳、中国在住20年、バツ3で3人の子持ち。
以前の奥さん3人とは全員死別していて、
現在は4人目の奥さんと義理の娘さんと暮らしている。
先週、僕は佛山へ出張し、
この新米工場長を含めた工場幹部の人たちと、
新たな事業計画について打合せをしてきた。
しかし、この新工場長、
全く喋らないし、仕切らないし、質問もしない。
かといって、新米で緊張しているのか、と言えば、
そんな風でもない。
真面目に仕事はしているようなのだが、
工場長として決定しなければならない事柄や、
知っておかねばならない事項に対して
何のリアクションもなく、話を振っても、
えー、とか、あー、ばかりで何も答えない。
ただ黙ってそこにいるだけなのだ。
最初、僕は彼を立てて、
「これをみんなに訊いてみてください。」
「あれは本当にこれでいいのか検討してください。」
と、背後から聖霊のようにささやいていたのだが、
結局、夜7時になっても何も決まらず、
最後は僕が仕切って会議はお開きとなった。
その後、宿泊先近くの日本料理屋で彼と二人、
食事をしながら酒を酌み交わした。
このT氏、
もともとこういう無口な人なのかなあ、と、
思っていたのだが、酒が入ると饒舌によく話す。
そうやって、
彼の生い立ちや家族のことを聞いているうち、
なんというか、とても穏やかで平和な心地良い波動が、
彼から発せられていることに気づいた。
会議の時には、
「この人、こんなんで、やっていけるのかなあ。」
と心配していた僕であったが、
気が付けば、僕は彼のことがすごく好きになっていた。
やがて、店の店主も、店員さんも、なぜかみんな
彼に対して優しく笑顔で接しはじめ、
店主などはサービスだと言って、
熱燗が入ったとっくりを持ってやってきて、
僕たちと一緒に飲み始めた。
この人、ひょっとして、すごいかも…。
彼は、特別、何かをするわけでもないし、
人々の気を引くような話をするわけでもない。
むしろ、少し不愛想なほどだ。
なのに、しまいには、
通りかかりの人までなにやら話しかけてきたりして、
みんな、穏やかで平和な波に呑み込まれるのだ。
彼を見て思った。
そこにいて、ただ放っているだけでいいんだ、と…。
仕事という外部的な目的はあくまで2次的なもので、
大切なのは全体の意識として在ることなのだ。
全体の意識として在るということは、
聖霊兄貴に委ねきっていること、
委ねきるということはハートの中にいること、
ということになる。
知ってか知らずか、
T氏はそれを、無意識のうちにやってのけていた。
彼には〝生〟に対する抵抗というものがないのだ。
ただ、会社での会議のように、
みんなが問題の対象とどっぷり同一化状態である時、
聖霊と共にあることができず、結果、
愛と慈しみの波動が遮断されてしまうのだ。
何のことはない。
問題はT氏ではなく、僕たち受け側にあったのだ。
宇宙人総経理に続き、また一人、
面白い人がうちの会社に入ってきた。