今日はイースターの休日中だというのに、
大事なファイルを本社に送付するのを忘れ、
わざわざ事務所まで送付しにやってきた。
せっかく来たので、コーヒーを淹れ、
誰もいない静かな事務所で小説を書いたりした。
全ての行為の背後に〝認められたい〟が潜んでいた、
ということに気づき、ひとつひとつの想いを観察し、
決断の主体まで戻しながら、ずっと聖霊に委ねている。
先週木曜日は、
現在融資を受けている信用金庫の所長さんが、
佛山工場を参観したいというのでアテンドに当たった。
その間、自分の立ち居振る舞い、一挙手一投足、
言葉や表情の裏で作動している〝エゴの思惑〟を、
捉え、兄貴に委ねながら応対した。
会議室で名刺交換をする。
→ この人は何々銀行の何という地位の誰それで
自分は融資を受けている会社の誰それで、
別々の全く違う人間なんです。
ふぁちゃんがコーヒーを持ってくる。
→ 所長さんにコーヒーをお出しして、
ちゃんと対応しているとアピールしたい。
僕が所長さんと話をする。
政府がマイナス金利を導入したことで、
これからは銀行さんも日本銀行の国債を持つより、
企業融資の方へ動く傾向がなんちゃらかんちゃら…。
→ 僕はちゃんとそれなりの知識を持っているんです。
融資資金で使用される設備投資額がどうのこうの…。
→ ちゃんと僕を信頼してくださいよ。
今日の視察の結果をメールで本社に報告する。
→ ちゃんと仕事をしていると、
存在価値を認めてほしい。
一体、誰に、そんなにも認められたいのか、
そんなにも認められたいと思っているのは誰なのか、
と、不思議に思うのだが、自動反応は止まらない。
もう、一歩歩くのにも、自分がしゃしゃり出てくる。
ただ、そういう〝肉体としての自分〟でいたい、
というエゴの想念を認識したとき、
そんな自分を即座に否定してバッシングしたり、
その行為自体を自制しようとしたりしないように
注意している。
エゴは〝父のもとへ帰りたい〟という、
究極の愛への叫びであり、
いつかは自分と共に父のもとへと戻ってゆく存在だ。
それに、その行為自体を抑制したところで、
どうせ腹には一物もっている。
やろうがやるまいが、言おうが言うまいが、同じことだ。
それは自分の努力で達成されることではなく、
委ねた結果、聖霊による癒しによって、
自然に削除されてゆくべきものである。
こういうことを、四六時中やっているうち、
この世界に対してある種のあきらめが芽生えてきた。
「もういいや。きりがない。降参だあ!」
帰りのフェリーの中、
脚を投げ出して大の字になり、聖霊兄貴に向かって、
僕はもう何もしません。
兄貴の成すように任せます。
完全丸投げ無条件降伏いたします。
とまあ、心底思えた。
氷が降ろうが、槍が降ろうが、
自分はただ、聖霊兄貴が差し出してくるものに対して、
ただ、イエス、と言って受け取るだけだ。
読者の中には、そんなにも委ね切っていると、
兄貴に乗っ取られているようで気持ち悪い、
何かに操られているようで気分が悪い、
自分がなくなってしまうようで怖い、という方もいる。
NO!それは逆だ。
聖霊兄貴が別のどこかに、
分離して存在しているわけではない。
聖霊兄貴が本当の自分で、肉体の自分がウソなのだ。
偽物の方を自分だと思い込んでいるだけだ。
聖霊兄貴に委ねるということは、
元来の自分に返るということであり、
最後は自分は聖霊となって、消える…。
♪あなたが望むなら、わたし何をされてもいいわ〜♫
とまあ、ここ数日は、
山口百恵の『青い果実』状態である。(ふるっ!)