香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

直感と心の決断


↑チンチン電車に乗って…

先週の土曜日のこと。

イースターから清明節にかけての連休の間、

毎晩、夕飯を食べた満腹感で眠くなり、

9時くらいから爆睡して、朝3時に目覚めるという、

もろ太る最悪パターンを続け、今朝も二度寝できずに、

仕方がないので、朝7時からジムへ行くことにした。

早朝のジムはガラガラで、マシンも使い放題。

平日だと、出勤前にトレをする人が多いので、

タラタラとマシンに腰かけながら

スマホをする輩もいないだろうし、

これなら、6時半に起きれば、7時にはジムに着き、

トレをした後、シャワーを浴びてから出勤できる。

これからは、早朝ジムもありかも…、とマジで思った。


その後、近くのカフェでコーヒーを飲みながら、

エッグハルトの『悟りを開けば…』を再読する。


本の中に、生生流転という言葉が出てきて、

この言葉、なんかカッコいい、とハイライトを引く。

今度自分の小説の中でも使ってみようっと。


万物は絶えず生まれては変化し、移り変わっていく。

カタチある世界では、誰もが必ず敗北する。

うーん。

ワイドショーで桃田選手を見た後だけに、妙に納得。


このとき、エッグハルト氏が言っている、

〝今を完全に受け入れる〟ということは、

ボディが感じているこの幻想世界を、

決断の主体へと戻す作業であり、委ねきること、

明け渡すことと同義語なんだな、と理解できた。


↑なんだか世界がマトリックスっぽく見える 

急に、なんとなく街を歩きたくなり、

チンチン電車に乗ってサイワンホーまで行き、

唐楼の連なる旧い通りを当てもなくぶらぶらした。


我々は、目に見えない助けや導きを、

この幻想レベルで経験することがある。

それはあくまで助けに見える幻想ではあるのだが、

初期の段階では〝なんだか分からないけれど〟という

この内なる声を聴くのは大切なことのように思う。


特に男性は、直感に従ったり、

内なる声に従うことに異常な抵抗を示す。

頭で納得のいかない行動をするのが生理的に嫌なのだ。


何かを選ぶ時、誰かに会った時、物を買う時、

表面で考えている自分の、より奥深い部分では、

必ず〝本当のこと〟を感じ取っている。


レストランでメニューを見て注文する際、

以前、食べたオムライスが美味しかったから…、

こっちの方がセットでお得だから…、

みんなと同じものを注文すると無難でいいや…、など、

思い込みや過去の経験、その場の状況で決めてしまう。

そしてそれを〝自分で決めた〟と勘違いしている。


または、

この人は親切だし、外見に好感が持てるし、話も合う。

でも、なんだかわからないけど、妙な違和感を感じる。

それでも、表面上は問題がないので、付き合うと、

のちに「あんな人だとは思わなかった。」となる。


僕の仕事は人事を含む管理系なので、

日頃から、たくさんの人を面接する。

先日の会計員の面接のときもそうだったのだが、

面接者の中には、見た目も、経歴も、受け答えも、

まったく問題がないのに、なあんか引っかかる、

なんかすっきりしない、という人がいる。

それでも表面的には問題がないので採用すると、

必ずいろいろとややこしいことになるのだ。


直感、直感と言ったって、その中にも自分の判断が

混じったりするんじゃないか、という意見もあるが、

それでもいいじゃないか。

科学や理論で証明もできないし、目にも見えない、

そんな聖霊を信頼するには、先ず、自らの中に宿る、

何だか解らない部分を信頼する必要があると思うのだ。


なぜなら、僕の場合、

〝何だか分からないけどやってみる〟があったらこそ、

心の中にいる聖霊兄貴までたどり着けたと思うからだ。


家に戻り、午後からはずっと書斎にこもって、

ジンジャータウンの続きを書いて過ごした。


現実がリアルでなくなってゆく感覚。

「これからあなたは天国へ戻る準備に入ります」

と、ヴィパッサナーに参加している時に聞こえた、

聖霊兄貴の声はまんざら嘘ではないかも、と思える、

そんな土曜の午後なのであった。