今日は、数字から来る〝分離の思い〟を、
一日中明け渡し続けていた。
各拠点から送られてくる財務諸表をチェックする。
どうして今月はこんなに運送費が多いのか、
銀行残高とキャッシフローの残高が合わない、など、
各拠点の責任者と確認を取りながら完成させる。
午後は1億円の増資資料作成に入る。
利息はいくらで、期日はいつまで、と、
銀行とやり取りをしたあと契約書にサインをする。
予算作成のために営業から来期の売上予測を貰う。
USドル、香港ドル、ペソ、人民元…。
各拠点から外貨で出てきた数字を円に換算する。
夕方、面接を2件行なう。
年齢、通勤時間、希望給料、経験年数、TOEFLの得点、
ひとつひとつ質問しながら、返答内容を記入してゆく。
ふと、思う。
自分って、1日中数字を追ってる。
それも、無意識のうちに…。
片っ端から、何かを数値化することによって、
起きていることを強化し、エゴを安心させている。
そして、さまざまな数字を比べ、
〝これとあれは違う。〟〝これとあれには差がある〟
〝あなたとわたしは別個の違う人間だ〟と、
分離の差を明確化する。
結果、自分が神になったり、相手を神にしたり、
恐怖Yと罪悪感をよりリアルなものにしようとする。
例えば、
偏差値、試験の点数、セールスマンのノルマ、
貯金の額、家の広さ、年収、遺産の額、物の値段、
陸上選手のタイム、スポーツの得点、順位、
所要時間、体重、身長、年齢、血糖値、など、
僕たちは数え切れないくらいの数字によって選別され、
個別化されて幻想の分離ゲームに参加させられている。
そういう意味で、数字(数値)は、この分離の世界を
保持するための最強ツールだと言えるだろう。
でも、フィギュアスケートの採点基準が変わったら、
羽生選手の点数も変わっていたかもしれないし、
血圧の数値が高くても90歳で元気な人もいる。
もともと、この幻想世界の始まりは0と1なのだが、
それを「0と1が135個並んで〝これ〟になった。」
と認識するようになり、135という数字を生み出した。
そうやってエゴは、無数の神(数値化された物質)を
生み出し続ける。
数値の裏側で起動している〝分離した〟という想いを
決断の主体まで戻し、聖霊兄貴のハートの想いに
選び変えて行く。
後は兄貴に委ね、現実はいじらない。
数字を〝エゴだ〟と意味づけして嫌う必要もない。
数字はあくまでただの記号に過ぎない。
普通に仕事をこなし、心の中の選択だけに集中する。
結果については、兄貴の延長に任せる。
やがて、
数字は何の意味も持たない記号の羅列となり、
最後には0と1だけにもどるのだろう。
このように、現実世界は平安であるにもかかわらず、
心の中はフル稼働状態である。
ハードディスクが回りっぱなし、という感じ。
でも、聖霊兄貴がいてくれてよかったあ。
委ね切る先もないまま、こんなの一人でやってたら、
今頃、絶対気が狂ってるよ。