会計士さんと打合せがあったため、
久々に深圳の龍崗(ロンガン)を訪れた。
地元のすし屋でお寿司をごちそうになり、
はまちと、トロと、サーモンをたらふく食い、
普段昼飯を取らない僕は、パンパン満腹状態に…。
帰りはミニバスで香港に戻ってきたのだが、
満腹の中、初夏の光に包まれ、とても幸せな気分。
目の前の人が、何を言ったり、やったりしていても、
その人の奥に輝く、ひとつの光の人型を見る。
肉体はそれぞれ違う兄弟でありながらも、
同じひとつの聖性を感じる。
そんな感覚はまだ続いているのだが、
それでも、ちょっかいを出したい自分が、
ともすると、眼前の設定を仕切ろうとする。
兄弟がこんなことをした、とか、
今日、こんなことが起こった、だけでなく、
心の中で入道雲のように沸き起こる分離の想い…。
そして、赦し続ける。
これまでは
〝赦す〟という言葉が、なんか宗教臭く、
格式ばっていて、しっくりこなかった。
その代わりに、明け渡す、委ねる、手放す、
といった、能動的な言葉で赦しを実践していた。
しかし、
自分がひどいVR中毒状態であることを認め、
心の中の赦しに集中するようになって以降、
赦すという言葉が自然と口から出るようになった。
この言葉からは、
今、起きているように見えてること、
兄弟がやっているように見えることを、
あるがままに受け入れ、それは起きていない、
と教える、兄貴の優しい眼差しを感じることができる。
心を今に開き、ただ消えてゆく姿として見送り、赦す。
これ全部、ウソなんです。
この人たち全部、ただの動く蝋人形なんです。
そして、自分のこの肉体もただの着ぐるみなんです。
だから、もうこんなおもちゃ、要りません。
なんか、仕事をしているのか、赦しをしているのか、
分からなくなってきた今日この頃。
心底思う。
このへんちゅくりんな世界、長居は無用だ!