↑香港ヴィパッサナー瞑想センターへ続く小道
最近、様々なスピリチュアル関係のブログやサイトが
どんどん有料化されてきている。
〝続きはチップサイトご利用後にご覧ください。〟
〝続きをご利用の際はこちらをクリック!〟
と、書き方もニクイ。
まあ、サイトやブログの運営者も、
それなりの時間と労力を駆使し、
独自に会得した有用な知識を提供しているわけで、
その対価として報酬を得ることに何ら問題はない。
だが、
こういうスピの有料サイトを見ていて感じるのが、
料金を要求する文面の中で多々見受けられる、
チャージ、ドネーション、チップ、といった、
婉曲された表現の裏側に隠れている無意識の罪悪感、
というか、スピで金銭を得ることへの後ろめたさだ。
例えば、
「私はお店を経営して一家5人を食べさせています。」
と聞けば、大概は〝へえ、すごいですねえ〟となるが、
「私は奇跡講座で稼いで一家5人を養っています。」
と言うと、なんかヘンな感じがする。
また、当時のイエスキリストやお釈迦さまが、
「はい。3時間1万円ね!」
と、お金を取って教えを伝授したり、
病を癒したりしていたとも思えないし、
マザー・テレサが、
「ベッドのシーツ代1枚100円!」
と言いながらシーツ交換するのも絶対に有り得ない。
デイヴィッド氏も自著『覚醒へのレッスン』の中で、
〝イエスはまた、
「惜しみなく受け取り、惜しみなく与えなさい」
と言ってから、とても具体的にこう言いました。
「何事にも決してお金を請求してはなりません。
何事においても1セントも請求してはなりません。
書いて、話して、カウンセリングやスピーチをし、
集会を開き、といった、全てにおいてです。
惜しみなく受け取り、惜しみなく与えなさい。」〟
と述べている。
要するに、
天国(真理)と金銭(エゴ)は相容れないものだと、
理屈や方便ではなく、
みんな心のどこかでは分かっているのだ。
それが、天国を説くことで金銭を得ることに対する
違和感の原因となっている。
まあ、真理の中にお金(究極のエゴのツール)など、
存在しないのは当然だし、
もし、天国に行ってもお金が存在していたら、
それはもう、絶望しかない。
僕の場合、現在独身(現在←強調!)で、
養わなければならない家族もなく、
ぎりぎり何とか暮らして行けるだけの収入もあるので、
それであれば、むしろ、
お金を払って教えてもらうほうがいい、と思っている。
なぜなら、
分からない点があれば何でもズケズケ質問できるし、
ひとたび自分の身に苦難が降りかかれば、
LINEやメールで教師に泣きつくこともできる。
それに、もうこのメソッドはいいかな、と思ったら、
さっさとやめて他に移ることも可能だ。
これが報酬を受け取って教えている先生だと、
昨日まで料金を取ってバシャールを教えてたのに、
今日から奇跡講座を教えます、
というわけには、なかなかいかないだろう。
別にそうやっても構わないが、
ついてくる生徒はそんなにいないように思う。
まあ、生徒をやっている方が断然〝ラク〟なのだ。
それに、昔と違い、
学ぶ側の知識や情報も豊富となり、
マスターを見る目も益々シビアになって来ている。
ここまで書いてきて思ったのは、自分も含め、
学びを教える側も、学びを受け取る側も、
依存し合ってはいけない、ということだ。
スピだけをやって生活したい。
スピを職業にしたい。
生徒でいたほうが安心だ。
この教えも私を救ってくれなかった、
今度は誰に学ぼう…。
その行為自体はニュートラルであっても、
その裏に流れる〝分離の想い〟に気づき、
明け渡してゆかなければ、
容易にスピエゴの罠に陥ってしまう。
↓スピエゴの記事は下記をご参照スピエゴ - 香港さんといっしょ! 純粋非二元と奇跡講座を生きる
結局、僕たちは、それぞれの役割の中で、
自動的に心の中で選んだ罪悪感を赦し、
明け渡してゆくことしかできないのだ。
そして、最終的に行きつくのは、
真のマスターは聖霊(スピによって呼び名は様々)
だけだと腑に落ちて理解することなのだと思う。
ただ、金銭なんか受け取らなくても十分に豊かである
ということを自ら身を以って示してくれる
マスターや教師がいたなら、
お金を払ってでも会いに行きたいと思う。
そういう豊かさを見せるのも、
これからのマスターの役割でもあると思うから。
結論としては、
有料であろうと、無料であろうと
あるところまで生身の教師に導かれたなら、
後は本当の教師である聖霊兄貴の導きだけに従う。
そして、最後には、
全部夢でした、幻想でした、分離してませんでした、
ちゃんちゃん、で終わりとなる。