↑昨日は客家(ハッカ)料理を佛山のみんなで食べた。
〝もうわたしには何にもわかりません。〟
〝どうすればいいか教えてください。〟
〝聖霊、お願いします。〟
そうやって自分の個としての想いを全部聖霊に捧げる。
ちょっと待ったぁーっ!
聖霊兄貴からストップがかかった。
ばばん、と入ってきたのが、
まずはちゃんと思考をしろ、だった。
ここで言われている思考が、
四六時中、わけもなく頭の中をぐるぐる流れている
〝想いの断片〟を指しているのでないことはわかる。
また、赦しの際に認識すべき、
罪悪感や分離の想いのことを言っているのでもない。
例えば、
自分の夫が他の女性を好きになり、
ある日突然、夫から離婚を切り出されたとする。
または、全くいう事を聞かない自分の子供に対して、
大きな怒りを抱く子育て中の母親がいたとする。
そういうとき、即座に、
〝もうわたしには何にもわかりません。〟
〝どうすればいいか教えてください。〟
〝この間違った想いを修正してください。〟
と、やってしまうのではなく、
先ずはちゃんと悩みなさい、ということである。
夫が離婚を切り出した。
自分は何がいけなかったのか。
他の女性を好きになった理由は何だったのか。
自分も本当にこの人のことが好きだったのか。
やり直したいのならどうすべきか。
この収まらない怒りをどう処理すればいいのか。
養育費など、お金の問題はどうするのか。
やんちゃな息子を持つ子育て奮闘中のお母さん。
なんで、自分の子は他の子供と違うのだろうか。
自分のやり方のどこがまずいのだろう。
他のママさんはあんなに幸せそうなのに、
なんで自分はいつもイライラしてしまうのか。
この現状をどうすれば旦那に解ってもらえるのか。
まあ、日々の日常で差し出されるレッスンに対しては、
普通に委ねて行けばいいと思うのだが、
今の自分が抱える比較的メインとなる問題に対しては、
聖霊に捧げる前に、
カタチのレベルでやるべきことをやる前に、
先ずは、
個としての自分の想いをちゃんと受け止め、考える。
毎日、毎日、考える。一生懸命思考する。
答えなんか出なくてもいい。
〝私には何もわかりません。聖霊お願いします。〟
とやるのはそれからだ。
なぜなら、
いくらこの世界が幻想で、起こってもいないんです、
と言ったって、設定として、そこで生まれ育んだ、
その人、その人、固有の性格や感情があり、
それを無視して赦しなんてできないからだ。
最近のスピの流れとして、個の思考は手放すもの、
というスタンスが定着しつつあるが、
手放すにせよ、聖霊に捧げるにせよ、
その〝手放す〟〝委ねる〟という行為を行なうのは、
まぎれもない、ここにいる〝個としての自分〟だ。
だから、ちゃんと尊重してあげる必要がある。
うちの会社。人の流出が止まらない。
そんなに問題の多い会社でもないのに、
宇宙人総経理に続いて、大魔神副総経理、製造部長、
購買部長、製造次長、と次々に辞めて行く。
まあ、会社という所は、どんなに重要な人が辞めても、
必ず何とか回っていくものだと経験上知っているので、
そんなに憂慮はしていない。むしろ、
高職位の人が辞めた方が、うまくいく場合さえある。
そういう意味で、ここへきて自分の周囲が、
急に慌ただしく変化しはじめているのを感じる
今日この頃である。