香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ハートのさざ波



湧き出る想いは全て自分のものではない。

絶え間なく湧き出る想いに主体も根源もない。

肉体、感情、反応、意識、これらも皆、自分ではない。

ということが深く浸透し始めてきた3連休だった。


外気は暑く、ジムが閉店になったということもあり、

この連休は、一歩も外出せず、映画を観るか、

小説を書くか、日本語で書いた自分の小説を、

中国語に翻訳するか、などして過ごした。


小説を書いていると、ペンを走らせるそばから、

次のプロットや文章が湧き出してくる。

また、映画を見ていても、場面場面で様々な反応が、

想いとなって湧き上がってくる。


いま書いているこの小説のストーリーは、

一体、誰が考え、誰が書いているのか。

この映画は、誰が見ようと決め、誰が面白いとか、

つまらないなどと判断しているのか。

または、この人は好きだけど、この人は嫌いとか、

一目ぼれとか、わけもなくキュンキュンするとか、

一体誰が、そういう風に〝仕向け〟ているのだろう。

少なくとも、そこに僕の意志や意図はみじんもない。

よーく観察して見ると、どこにもそれを意志した

〝誰か〟などいない、ということに気づく。


じゃあ、一体何によって行為が成されているのか、

という疑問をもっている〝ボク〟って誰なんだろう?


例えば、会社では毎日色々な事が起きているけれど

もし、そこに反応したり、意味づけをしたりしている

〝個の自分〟が存在しなかったら、

その景色は、どんなふうに見えているだろう。

個の自分が消滅しているのに、全てが起きていて、

それをただ見ている自分がいる。

んん? それをただ見ている自分…?

なに、これ?

そこで、じっと眼を閉じ、

〝それをただ見ている自分〟にフォーカスしてみた。


いまこの瞬間に在り、あらゆる湧き出る想いを委ね、

背後のその奥に佇む、静寂な意識に留まり続ける。

意味づけし、策略を巡らす感情の流れの奥にある、

静かなもうひとつの〝わたし〟を感じてみる。


胸の奥の奥の方に、何かが〝いる〟。

あまりに静かすぎて気づきもしなかったけれど、

起きている事や、思っている事とは、全く別物の、

確固とした塊りのような何か(言葉の限界である)。

ああこれが〝わたし〟を〝わたし〟たらしめている、

ずっとそこに在り続けている純粋な〝僕〟…?


静かな深夜のリビングで、

ちょっと油断すれば見失ってしまうほど静かな、

〝そこに在るだけのわたし〟にとどまり続ける。

究極の今にいるうち、

留まろうとする自分も消失していた。


やがて、ハートがぐわぐわぐわ、とせり上がってきた。

怖い、と思いながらも、踏ん張る。


自分は神から分離なんかしていなかった。

自分はハートのエクスタシーそのものだった。

自動的に沸き立つ想いや感情も〝ハートのさざ波〟

にすぎなかったのだ、と実感した。


毎日イラッとしたり、体が苦しかったり、感動したり、

そんな〝びゅんびゅん〟の数々もハートの一部であり、

ただハートがさざ波だっているに過ぎない、と解かる。

そして、起こったかと思うと消えるさざ波。


〝ハートの中で全てが起こり、何も起こっていない。〟

〝心の奥で、静かに世界を観察している私の眼差しは、

 実は、父(神)が自分を見ている眼差しだった。〟


ハートも、父の国も、聖霊も、重複して同時に、

いま、この現実世界に存在している。

見るもの全てが神の愛に見える、みたいに、

自分が変わって見え方が変わる、のではなく、

自分は変わらずずっと神の中にいるのだ、と、

どすーんと来た。


でもまあ、どすーんと来たからと言って、

あると思い込んでいる分離の想いや罪悪感が、

すっかり消えてしまったかと言うとそうではない。


でも、もう以前のように、自我の自分と兄貴とを分け、

幻想の世界と天国を分け、あると思っている罪悪感を、

どこか別の場所にいる兄貴に明け渡す、

というような、分離した感じではなくなっている。


どこかにある父が待つ天国へ帰還する、

ということもない。


だって、いまいる、こここそがそのまま、

ハートや、兄貴や、父である神の中であるのだから。

そして、

いまここに同時に存在している天国の光の中で、

個の自分は、完全に降参し、解体されるのだから。