香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

まだ出てくるわ!

今朝、久しぶりに、電車の中で、

加藤三代子女史の講義を聞きながら出勤した。

聞くのはもう15回目くらいか。


ここのところ、少々非二元寄りな,

デイヴィッドの著書や映像に没頭していたので、

ここらで再度基本に戻り、

忘却のベールの向こう側で起きているからくりを、

ちゃんと再認識しておこうと思ったのだ。


で、決断の主体についての部分を聞いていたとき、

「もうこれからは、決断の主体そのものの位置から、

 直で聖霊に選び変えてゆけばいいんだ。」

と納得した。


厳密にいえば、ここで言う決断の主体とは、

一なる神の子としての決断の主体のことではなく、

各個人に分裂した、砕けた一なる子の断片の一つ、

つまり〝決断の主体の断片〟のことを指している。

しかし、各々の断片は一なる主体に繋がっており、

よってどちらも同じ性質と機能を持っていると言える。


投影の基本的からくりはこうだ。

決断の主体の断片によって選択された信念が、

個人の意識に反映された結果、

「私は、これを、こういうふうに感じている。」

「これについて、わたしはこう思っている。」

「だから、こういうふうに対処するべきである。」

と、まるで自分でこれを決めているかのように、

錯覚されて知覚されている。


これまでは、

幻想世界に現われている様々な意味づけや判断を、

聖霊を通じて神へと戻して行っていたが、

忘却のベールの向こうで何が起きているかが、

ある程度理解でき、腑に落ちてくると、

ベールの向こう側で選択されているエゴを見ても、

そんなに恐怖におののかなくなり、

〝決断の主体の断片〟の位置から、直接、

聖霊を選び直していけばいいんだ、

というふうに、赦しのスタンスが変化してくる。

そうすることで、間違った心がエゴを選択する瞬間を、

直視することにより、ダイレクトな削除がおこる。


コースが言っている、

エゴを直視すれば、エゴは消える、と言う意味は、

厳密に言えば、目の前で起きていることによって

生じている〝エゴの想い〟を直視することではなく、

(もちろん、それでもいいのだろうが…。)

エゴの想いを生じさせている元ネタの心の部分を

直視することだ、ということが理解できた。


例えば、

友人だと思っていた人から突然絶交されたとする。

メールをしても返事はなく、理由も教えてくれない。

ああだったのかな、こうだったのかな、悲しい、辛い、

と、罪悪感や恐れの感情が湧き出してくる。

その出てくる思いを見つめ、何もわかりませーん、と、

聖霊に明け渡すだけではなく、

そういう想いを〝ふっ〟と湧き出させている心のほう、

つまり、ベールの向こう側の心にフォーカスする。

すると、そこでは、決断の主体が、神から離れた、

という強い信念から来た恐怖に基づき、

エゴを選び続けている、という、

たったひとつの理由を目撃する。


全ては、神から離れた、という、

たったひとつの思い込みから生じていたことからくる

心の単純反応が見えてくると、

現実の投影を見て感じる様々な感情に、

いちいち対処する必要がなくなり、

たったひとつの原因を赦してゆくだけとなる。


また、決断の主体を分かっていることで、

聖霊に委ねたと思っていたのが、実は、

ベールの向こうへ明け渡した後、

自動的にエゴを選んで、またここへ戻ってきました、

というエゴのループに陥らないで済む。


そういう意味で、最低限の理論を学ぶことは、

とても大切なんだな、と思う。


「わたし、今年90歳で、

 もう70年も赦しを実践しているんだけど、

 いまだにわんさか憎悪や怒りが出てくるわ。」


なんてホラーだよ。

まあ、これはジョークだけど…。