↑2011年アンフィニのバルセロナでのクラス
昔の写真を整理してたら出てきた。
みんな元気にしてるかな。
今は、ワプニック氏の本とゲイリーの3冊目を、
交互に読みながら通勤している。
ゲイリーの本はとても面白いのだが、
聖霊と贖罪という言葉の横に、
いちいちホーリースピリット、アトーンメント、と、
小さく長いルビが振られているので非常に読み辛い。
毎回ここで引っかかり、文のリズムが止まってしまう。
『覚醒へのレッスン』の翻訳者もそうだったが、
まだ一般的に日本語として定着していない英語を、
どうしてこんなにも安易に、外来語として、
カタカナでそのまま表記してしまうのだろう。
だって、外国語を日本語の言葉で表現することを
〝翻訳〟というのではないのか !
アトーンメントなんて、
英語知らない人にはわからないし、
ホーリースピリットもいろんなスピで使用され、
それぞれに意味が微妙に違うので、
誤解が生じやすい。
こうやって、いちいちツッコミを入れながらも、
なんとか赦しながら読んでいる。
そう言えば『奇跡講座』には、
現代語や外来語がほとんど使用されていない。
というか、皆無だ。
これは、たとえ1000年後の日本人が読んでも、
ちゃんと意味を曲解することなく
理解できるようにしておくため、なのだという。
そういう意味で『奇跡講座』は、
翻訳者の妥協なく、完璧な日本語で表現された書物、
と言っても過言ではないだろう。
それにしても、ゲイリーの3冊目に出てくる、
あのアメリカの9.11のビル爆破テロは、
全部アメリカ政府が仕組んだことで、
飛行機も自動操縦だった、って…。本当かな?
というわけで、
ワプニック氏の『奇跡の原理』は、原理15まで読んだ。
さすが、昔の学者さんの文章はシブイ。
どう表現しようかと戸惑うような、感覚的な事柄も、
硬質な文章で理路整然と描かれていて、
非常に勉強になった。
『聖霊から具体的なことを聞き取れないようにしている
障壁の一つは、私たちが具体的なことを聞きたいと、
要求していることだ。』
『わたしたちが気にかけるべき唯一のことは、
自我を聖霊に運ぶことであり、
自分が発する言葉や反応が聖霊からくるようにと、
信頼するだけで、発する言葉には焦点を合わせない。』
(ワプニック氏著:『奇跡の原理』より抜粋)
「わたしはこの仕事を続けるべきですか。」
「あの人に対して感じている知覚を修正してください。」
「わたしはあのセミナーに行くべきでしょうか。」
という類の聖霊への明け渡しは、質問ではなく要求である、
とワプニック氏は言う。
「私は何もわかりません。聖霊。お願いします。」
の裏にも〝ちゃんとやってくれよ〟が潜んでいたりする。
「知ってる。自分はそんな赦し方はしてない。」
と、個の自分が反論する。
いやいやいやいや…。普通にやってる。
師事に見せかけた指示…。
僕の場合、できているかどうかはわからないが、
個の自分から〝聖霊お願いします〟ではなく、
決断の主体からエゴを観察し、
決断の主体から聖霊を選択するようにしている。
また、
決断の主体がエゴを選んでいる状態のときは、
ふっと上がってくる制御不能な思いも、
闘い、憎悪、罪悪感ベースのものが殆どだったが、
決断の主体が聖霊を選びだすと、ベールの向こうから
ふっ、とあがってくる想いも、赦し、愛、平安
ベースのものになってきている気がする。
そこには、自分で赦そう、愛でいよう、
とする〝むりくり感〟がなく、
自然と平安になる感じ。
僕はそれがいちばん体感としてしっくり来るのだが、
どんな赦し方であれ、大切なのは、
普段生活をしているどんな瞬間も、
聖霊を思い出していることなのだな、
と思う今日この頃である。