↑朝の通勤風景(香港セントラル駅)。まだ寒くなる前。
東京では雪が降ったようであるが、香港も寒かった。
いま、昼前だが、気温は摂氏14℃くらいか。
僕はワイシャツに薄手のカーディガンで十分だったが、
朝、外へ出てみると、皆ダウンジャケットを着こみ、
手袋にマフラーと、北海道にでも行くのか、
とツッコミたくなるような服装でバスを待っている。
そのくせ、地下鉄やオフィスには冷房が入ってる。
本当に訳が分からない。
香港人は空気が常に流動していないとダメみたいで、
閉め切った部屋で、寒いからとエアコンを切ると、
必ず呼吸困難を訴えてくるのだ。
というわけで、
今週はずっと香港のオフィスでお仕事であった。
もう、今週は絶対に香港から出ないと決めていた。
もう、どこへも行きたくない。動きたくない。
あらゆる外出スケジュールを来週にずらすよう、
秘書のケリーに調整してもらった。
そんなわけで、外的なバタバタ感がなくなると、
出てくる赦しも、自然にチマッとしたものとなる。
例えば、
朝、おはようと挨拶したのに返事がなかった、
というような、些細なことで〝びゅん〟と来たりする。
なので今週は、デスクワークをしながら、
そういった、自己の内面にポコポコとさざ波立つ、
〝チョイびゅん〟を赦していった。
びゅんびゅんは、
エゴによって歪められたハートの愛の振動でもある。
家族と大ゲンカした、とか、事故を起こした、など、
解かりやすくびゅんびゅん来る出来事だと、
苦しく辛い反面、
自分の手に負えない分、すんなり降参できるのだが、
例えば、
私だけちょっと無視されているみたい、とか、
なんかあの人の一言にイラッと来た、というような、
こういうちょっとした感情のさざ波程度だと、
あの人の気持ちもわかるよなあ、
きっと自分の思い違いなんだ、と、
自分の気持ちを切り替えることで解決してしまい、
なかなか明け渡せなかったりする。
まあ、これは損得で話せることではないのだが、
他者を赦せば自分が赦される、赦しに大小はない、
というコースの原理からすれば、
この〝ちょいびゅん〟ほどオイシイものはない。
チョイびゅんをちゃんと完結させることで、
きつい設定を経験することなく大きく赦される、
ということになるからだ。
↑留学時代に作ったノートでベトナム語勉強中!
ケリーと二人だけの静かなオフィス。
勤労感謝の日の延長線で、日本からのメールもない。
そういう中で、あの時のあんな事やこんな事、
あの人から言われたあんな事やこんな事、
自分が過去にしでかした、
あんな恥ずかしいことやこんな失敗、
そこから、心の中で、実際には起きていない物語を
延々と発展させ、びゅんびゅんし続ける。
これまでは、ああ、やってるな、と気づいた時点で、
即、妄想劇場を中断し、それを決断の主体まで戻し、
〝神から離れた〟というたった一つの考えに
解釈しなおした後、聖霊に智覚の修正依頼していた。
或いはすでに修正を受け入れた聖なる神の子として、
それはすでに取り消されていることを確認する。
しかし、今回、
このとめどなく上がってくる過去の記憶や妄想って、
本当は、
エゴが自ら癒されるために出してきているんだな、
ということに気づいた。
決して 「あっ、エゴだ。赦さなきゃ。」
ではないのだ、ということを理解したのだ。
なので、
「また、あの事を思い出してびゅんびゅんしている。」
「また、エゴまみれな妄想を続けている。」
というのは違うんではないのかと…。
聖霊が延長されれば、
どんなエゴもそれは〝愛を求める声〟となる。
ただ、愛を求める懇請、という言葉が偉大すぎ、
意味は理解できても、いまいちピンとこなかった。
しかし、
それはエゴが、赦され、浄化され、天国へ帰りたいと、
自ら願い出ているということなんだ。
だからエゴの妄想や記憶の反復が始まったとしても、
そのまま、消えてゆく姿として出るに任せればいい。
一緒に天国へ戻りたいというエゴの切望を信頼し、
その哀願にそっと寄り添う。
変な言い方だが、エゴを通して赦されるのだ。
たとえ、
そのストーリの中へ埋没してしまったとしても、
ただ信頼して出させてやる。
怖がることも、毛嫌いすることもない。
なぜなら、
一番癒され、故郷へ帰りたいと願っているのは、
ほかでもない、エゴ自身なのだから。