排便って、ひょっとして、肉体に投影された、
赦しの代償行為なのではないか、と思った。
だって、僕たちは普段、
うんこが体内から外に排出されるまでは、
自分がそんな汚物を体内に溜めこんでいる
という自覚もなく生活している。
わたしはそんな汚い物などもっていませーん、
と言う感じで、食事したり、仕事したりしている。
そして、うんこが、ひとたび体から出てきた途端、
これはもう、私とは何の関係もありませーん、
とばかりに、自分とは切り離されたものとして、
そそくさとトイレの水に流してしまう。
そして、
それが、少しでも自分の手に付着しようものなら、
もう狂ったようにギャーギャー大騒ぎすることとなる。
ましてや、それが他人のモノともなると、
もう卒倒ものである。
きっと、赦しも、プロセスは同じなのだろう。
様々なエゴの感情が浮上してくるまでは、
それを体内に温存していることにも気づかない。
それが、何かの嫌な出来事(便意)で投影を起こし、
出てきたうんこ(罪悪感)を真正面から見ることで、
〝ああ、こんなの持ってたんだ〟と気づけるのだ。
そして、
「これはただのうんこだったんだ。
それ以上でも以下でもない。
だから、これによって罪悪感を抱く必要も、
嫌悪する必要もなかったんだ。神の子の自分に、
赦されるべき罪など、もともとなかったんだ。」
水に流して、ジャーッ。
後の汚水処理は、文字通り聖霊が尻拭いしてくれる。
ただ、この循環から抜け出すには、
食べるのをやめなければならない。
自分でやることを放棄せねばならないのだ。
だが、肉体としての僕たちには、
自分がよいと判断しているものはたくさんほしいが、
代価はなるたけ少なく支払いたい、と思っている。
美味い物はたらふく食べたいが出すのはいや、
だれでも、自身の身から出た汚物は見たくない。
それでも、代価は自動的に支払われ、
どんなに頑張っても、最後には排泄をすることとなる。
そこで、様々な〝隠ぺい工作〟が図られる。
これをトイレに例えるなら、昔は和式であったのと、
紙でお尻を拭いていたので、否が応でも、
隠ぺいしている対象と対面せねばならなかったが、
いまは洋式でウォシュレットがあるので、
殆ど〝現ナマ〟を見ずにすましていることができる。
兄弟によって差し出された〝現ナマ〟をちゃんと見て、
腹に一物もっていることをきちんと認識してから
自分にも、兄弟にも、赦されるべき罪などない、
これは嘘であり、消えてゆく姿なのだ、と、
聖霊に返し、放棄してゆくことが必要となってくる。
もちろん、そんな汚物は幻想であり、
聖霊によって、すでに間違いは修正されている。
なので、自分は修正後の天国を受け入れ、
決断の主体はすでに神の子に戻っていて、
ただ、幻想の世界をハートの延長として眺める。
汚物はハートの歪んだ形態に過ぎなかったのだ。
しかーし!
最初からそうはいかない。
こういう美しい言葉を聞いて、
即座に聖霊の修正を受け入れられたら、
そんなの、今頃、全員天国である。
なので、
〝こんなもの初めから無い。〟
〝これは私のものではない。〟
〝聖霊に委ね切るだけ。〟
とやる前に、ちゃんと運子ちゃんを認識し、
〝ひ、ひひいぃぃーっ!〟となりながらも、
赦してゆくことは、訂正を受け入れてゆくうえで、
とても有用な行為なのだ。
そのうえで、
〝わたしは聖なる神の子です。〟と宣言する。
運子ちゃん(嫌な出来事)は忌み嫌うものではない。
すべては、赦され、消えるために顕れている。
それは「僕も故郷へ連れてってえーっ!」
というエゴの叫びなのだから。