香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

わたしの神様


今年は元日が日曜ということもあり、

大陸から流れてくる排ガスもなく、

久しぶりに香港の空は澄み渡っている。


元日の午後、ゆったりとテレビを見ていたら、

東海テレビが製作した『神宮希林-私の神様』という

ドキュメンタリーをやっていた。

樹木希林がナビゲーターとなり、

自宅を紹介したり、自身の生き様を語ったり、

伊勢神宮や福島の神社を巡りながら、

見えない何か〝神〟について語る番組である。


中でも、樹木希林が話した、

自身の内面に対する観方に、とても興味を持った。


「私は、内田裕也という人物と交わることによって、

 それまで自分の中に在るとも思っていなかった、

 怒り、憎悪、殺意、といったものが引きずり出され、

 それを相手にぶつけることで清められ、

 昇華されていったんだと思います。

 なので私はとても彼に感謝しているんです。」


原文通りではないが、大体こんな事を話していた。

そして、彼女がこうして真に穏やかでいられるのは、

隠し持っていたドロドロを直視して、

昇華していったからなのだな、と僕は思った。


「これは、釈迦自身が語っているんですけれども、

 彼が悟りを開き、解脱できたのは、

 釈迦を妬み、抹殺しようとして、

 様々な修行の妨害をした、ディーヴァダッタという

 人物がいたおかげである、と言うんですね。」


このくだりを聞いて腑に落ちた。

自分にとって恐怖を感じさせる人、

探られたくない腹を探ってきたり、

気づかされたくないものをほじくり出す人、

反抗するわが子、浮気夫、理不尽な客、家族、など、

自分の怒りや憎しみを誘発してくる人たちというのは、

本当は自分を清めるために、

自らのエゴを清算させるために、

現れ出てくれた天使であるのだと…。


だが、

こういう話をすると、なまじスピをやっているだけに、

「知ってるよ。いろんな人が言ってるし、書いている。

 頭では解ってはいるんだけど、実際にはさあ…。」

と、いつものフレーズに帰結してしまうのだが、

この自動思考パターンを根性で停止させなければ、

スピをやってる甲斐がない、というものだ。

それから、

樹木希林が伊勢神宮のうどん屋に入った時、

女将さんが伊勢神宮のはっぴを送ろうとしたのだが、

彼女は「わたし、もらっても着ないので。」と、

きっぱり断っていた。

「せっかく着ていただこうと用意したのに。」

と、不服そうに食い下がる女将さんを前に、

「ここで、これを受け取っておけば、

 和気あいあいで丸く収まるかもしれないけれど、

 わたしは着ないし、もらえば捨てるしかないし、

 だったら、このはっぴは使命を全うできない。」

といって、絶対に受け取らなかった。


彼女の行動を僕なりに解釈すると、

自分に魂があるのと同じように、

モノにも目に見えない〝何か〟が宿っている。。

なので、服なら服に、車なら車に、パンならパンに、

それぞれに宿っている魂の使命を全うさせてやる。

なので、責任の持てないモノは、たとえ米粒一つでも、

〝情〟では引き受けない。


これって、モノの奥に在るハートを観る行為だと思う。


なので、彼女の自宅には服がほとんどない。

「形に残るもので欲しいものは一つもありません。」

と、彼女は断言する。

それでいて、彼女の部屋は調和にあふれている。


スピリチュアルも、宗教も、何もしてはいない彼女が、

ちゃんと神や、聖霊や、ハートの存在を理解している。

すごいな、と思った。

なので、

お金を払って個人セッションを受けたりするより、

先ずは、自分の周囲にいるディーヴァダッタから、

より多くを学ぶべきなのだ。


そういう意味で、

テレビって、やっぱり面白いな、と思うのだ。

自分が全く知らなかった、

または知ろうとも思わなかった分野の情報を、

ふっ、と提供してくれる。


なので、テレビとネットを比べ、

その優位性を云々すること自体ナンセンスだと思う。

自分が知らなかったことを知らせるテレビと、

知りたいと思った情報をより深く知るネットでは、

はなからコンテンツの方向性が違うのだ。


僕も、今日から自分の持ち物に責任を持とう。