というわけで、花の東京(なのかな?)武蔵茶房で、
『黒みつほうじ茶ミルク』を飲んでいる。
注文してから炮烙でお茶を焙り始めるので、
すごく時間がかかるのだが、
黒蜜とミルクとほうじ茶の味が絶妙、美味である。
やはり〝粋を尽くす〟という事にかけては、
日本人ってすごいものを持っていると思う。
僕も一応日本のメーカー勤務なので(総務だけど…)、
今後はこの精神で仕事にまい進する所存である。
というわけで、兄弟てっちゃんち。
痩せてスリムになった体を披露しようと思っていたが、
やっぱり、日本での10日間で元の木阿弥に…。
だって、日本の食物(特に白米)美味すぎる。
僕が元の木阿弥になったのは日本の食べ物のせいだ。
(↑ ウソ…。)
てっちゃんちでは、いつものように、温泉に浸かり、
朝まで語り合い、意識を題材にした映画を見ながら、
おいしいワインをたくさん飲み、
なごみルームでまったりこん、と過ごした。
そんな兄弟たちとの語り合いの中で、
特に深かったのが、正義を選ぶか平安を選ぶか、
ということだった。
東京へ向かう電車の中でのことである。
超満員なのに、地べたに通勤鞄を置き、
i-Padを見ているサラリーマンおっさんがいた。
書類などを入れる普通の通勤カバンなのだが、
それが通路をせき止め、扉付近の乗客が、
通路の中へ入って行けない状態にあった。
自分の周囲だけガラガラなのを知ってか知らずか、
おっさんは、余裕で映画なんかをみている。
誰か注意するだろうと思ってみていると、みんな、
嫌な顔をしてチラチラとそちらを見るものの、
誰も何も言わない。
まあ、今のこの時代、注意をして逆切れされると
何をされるかわからないので見て見ぬふりをするのも
分からないことはない。
そして、僕もひとり 「なんだ、このオヤジ。」
からくるびゅんびゅんを、心の中で赦し続けていた。
と、突然、そのおっさんのやっている行為が、
自分がやっている行為のように感じられ、
僕の代わりに、このおっさんが、皆から嫌悪され、
僕の罪悪感を引受けてくれているように思えてきた。
そうこうするうち、
みんなに迷惑をかけているこのおっさんは、
実は自分自身が生み出した別人格だった、
と気づいた途端、このおっさんに対して、
すまない気持ちでいっぱいになった。
ごめんよ!おっちゃん。
そういう気持ちが湧き出した瞬間、
周囲の憎悪を一身に浴びているおっさんを見ている
のがたまらなくなった。
おっさんにそれをさせているのは僕であり、
憎悪されるおっさんは、僕なのだ。
だから、
こんな自分を放っておくなんて嫌だ、と思った。
気が付けば、僕はその人に、
「すみません。ちょっとカバンをずらして頂けると、
有り難いのですが…。」と声をかけていた。
おっさんは、恐縮したように床の鞄をどけてくれた。
と、扉付近にぎゅうぎゅうになっていた乗客が、
通路の空いたスペースへと流れ込んできた。
今回の〝満員電車カバンで通路塞ぎ事件〟では、
「誰が見てもあなたは間違っている。
だから注意されて当然だ。」
と、正義からの〝注意〟ではなく、
「あなたは僕です。
僕はもう聖なる神の子に戻っています。
だから、あなたもいっしょに戻りましょう。
いままで、罪悪感を押し付けてごめんなさい。」
と、平安を選んだことからくる〝懇請〟として、
相手に意思を伝える、という事を学んだ。
だって、
もし、自分がおっさんと同様の行為をしていて、
自分がそのことに気づいていなかったとしたら、
「だれか、助けて!」と〝懇請〟する筈だから。
相手にその行為を止めさせるための注意と、
我々は聖なる存在だ、と宣言する懇請では、
方向が全く違う。
結果はどうでもいい。
相手に逆上されたって構わない。
おっさんが鞄をどけても、どけなくても、
自分は心が平安であることを選んでいる。
もしおっさんに何も言わず見ているだけだったなら、
電車を降りても、心は平安ではいられなかっただろう。
でもまあ、そうは言っても、
その時の状況や相手の〝ヤバさ〟加減にもより、
ケース・バイ・ケースで、
兄貴と共に見ていくことが大切だと思う。
とまあ、そんな感じのてっちゃんち初日であった。