↑これ全部三人で平らげた。
てっちゃんちに三泊した後、東京本社に出社した。
向かい合わせの机、まる聞こえの会話…、
プライベートスペースのない日本のオフィスは、
なんか監視し合っているようで、妙に緊張する。
てっちゃんちでは、いつものようにチリ産のワイン、
お寿司、さおちゃんの手料理、お菓子の山、と、
いま食わずしていつ食うんだ、という勢いで、
おいしい物をたくさん食べ、幸せな時間を過ごした。
最後に渋谷でスペイン料理を食べたのだが、
ここも、出てくる品がみんなウマかった。
最終日に会社の人と行った築地の魚屋さんもよくて、
今回は本当に美味いもの三昧の一時帰国であった。
前回の記事で書いた正義と平安の次に、
今回の合宿の中で大きなテーマとなったのが
〝記憶〟についてであった。
記憶とは過去であり、
わたしを〝わたし〟たらしめているものでもある。
なので私は過去であり、私の身体も過去である。
また、記憶が全ての意味づけを作っており、
その意味づけを、正義ではなく、平安から赦すことが
過去を取り消していく作業となり、しいては、
〝わたし〟を削除していく行為となる。
つまり、
わたし=記憶=過去=肉体=意味づけ、となり、
意味づけを赦せば、その他全てが削除される
という訳である。
例えば、自分は正しく、あなたは間違っている、
という、意味づけが出てきたときに、
その意味づけを今にいて捉え、
「私は正義ではなく平安を選ぶ。」と宣言することで、
その意味づけを〝聖なる神の子〟に変換してゆく。
それが赦しであり、天国の延長となる。
そうして、わたし(エゴ)が解体され、
わたしが薄くなると、神(ハート)が現れる。
僕たちは日々、様々な意味づけをして暮らしている。
道端で誰かに会って「こんにちは」と挨拶するのも、
彼は知り合いであるという過去の体験があるからだ。
だが、ここで言う意味づけは、
こういった日常の設定からくるもののことではない。
「私の足を踏んだあなたが悪いに決まっている。
だって、私は何もしていないのに、
あなたが私に危害を加えたのだから。」
「わたしを騙したあなたはどう見ても罪人でしょ。
だって、無実の私を騙したのだから。」
というような、正義を主張したくなるような意味づけ
にフォーカスしている。
これは自分が相手に投げつけた運子ちゃんであり、
本当は自分のものである、という見地から
そのような意味づけを赦すとき、前世を含む、
膨大な過去の記憶が削除されてゆくのだろう。
「そんな偉そうなことを言っているけれど、
もしも、自分の大切な人がなぶり殺しにされたら、
そんな悠長なことは言ってられないはずだ。」
と反論されそうだが、非難を承知で言うならば、
できるできないは別として、答えはYESである。
兄貴は自分にできない赦しは差し出さない。
どんなものが現れたにせよ、
もし、こんな狂った世界から脱出したいのなら、
いまここで、決断するしかないのだ。
そうすることで、意味づけされた影の世界が薄くなり、
薄氷から透けるように、実相のハートの光が
立ち顕われてくるのだ。