香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

あの人は次の僕


↑ 市場で鮭を買う。そうなのだ。自分で焼くのだ。
  クックパッドを見ながら…。


残業が続いている。

今週金曜から復活祭(イースター)の祭日で4連休、

ということ以外に、現在、コンババ本部長と遂行中の

秘密プロジェクトのほうがまた大変で、

機密事項が多いため、作業や打ち合わせが、

どうしても、全員が退社した後の夜に持ち越され、

必然的に残業が増えてしまう、という訳なのだ。


ほとんどの資料も、部下には作成させられず、

全部自分でやるため、今日はもうバテバテであった。

そのストレスが、

シャトレーゼのケーキのドカ食いへとつながり、

このままではヤバい、と思う今日この頃である。

それでも、復活祭はお籠り三昧が待っている。

イエス様!毎年、復活してくれてありがとう!


と、こんな感じで、夜、誰もいないオフィスで、

ひとり、シコシコと仕事をしていたとき、


〝ああ、この空間、全部自分の心の中なんだあ。

 自分はいま、自分の心の中に住んでいるんだあ。〟


と、しみじみとした実感が湧きあがってきた。


自分が、この目で見たり、この耳で聞いたり、

手で触れて感じているこの時空世界は、

そっくりそのまま、自分の心の中であり、

自分はいま、その中で暮らしている。

よって、日々接している肉体としての兄弟たちも、

結局は自分の心の中の象徴だったのだ。

例を挙げると、職場で毎日、朝から晩まで、

上司から怒鳴られてばかりいる人がいるとする。

本人は普通にちゃんと仕事をこなしているし、

怒られるようなことは何もしていないと思っている。

だが、

同じことを他の人がやっても何も言われないのに、

自分がやると、もう、凄まじい勢いで怒られる。

自分の何が相手の怒りを誘発するのか、

いくら考えても理由が解からない。

とにかく何をやっても、だめなのだ。


そんなとき、二つの赦し方がでてくる。

ひとつめは、

理不尽な怒りをぶつけてくる上司に対して、

自分の中から出てくる怒りや恐怖だけを見つめ、

それを兄貴に明け渡してゆくという、あくまでも、

自己の内側だけにフォーカスする赦し。

もうひとつは、

見えている空間自体が自分の心の中であり、

そこに現れる事象は全て、

自分の心の中で起っている事、すなわち、

その上司自体が〝修正されるべき自分の心〟として、

相手を丸ごと兄貴に捧げてゆく方法だ。


僕は最近、後者の赦しをすることが多くなっている。

相手を、自分の心の中が外に現われたもの、として、

相手がやっていることを自分がしていることとして、

委ね、明け渡してゆくのだ。


怒っている相手を観たときに内部から出てくる、

自己の感情だけにフォーカスし続けると、

自分を責めているようで、どうしても苦しくなる。

「相手のせいで自分はこうなっている。」

という思いが払拭できないため、

無意識のうちに葛藤を引きずってしまうのだ。


相手は関係ない、出てきているものだけにフォーカス、

と言いながらも、眼前の映像から逃れられないのも、

相手が自分の心の象徴物そのものだからだ。


なので、

「俺の心の中には、こんなキャラがいたんだあ。」

「こんなに理不尽な人が、俺だったんだあ。」

「こんな凄まじい怒りが俺にはあったんだあ。」

と、まじまじ相手を観察し、

相手の感情を自分の心の中のものとして、

慈しみの心を持って、丸ごと兄貴に委ねてゆくのだ。

最近、そうやって、外側に立ち顕れる人や事柄を、

〝それは自分の心だ〟という視点から赦していると、

何だか、世界が消えてゆくような感覚に襲われる。

と同時に、

自分の心の中が消えてゆくような感覚にも陥る。

それと、相手は自分の心そのものなのだから、

相手を赦せば赦すほど自分が赦されるのは当然だ、

という意識になる。


無意識の心に潜むエゴは、認識されると消える、

という特性を持っている。

しかし、何のことはない、

隠蔽できたと思っている心の中の罪悪感は、

すでに外側の空間ににむき出しにされており、

もとから白日のもとに晒されていたのだ。

あとは、それに気づき、見つめ、赦すだけである。


僕たちは、

エゴが映し出したものを使って帰還するのだ。