↑必死のパッチで朝ごはん食べてます。
またまた、大いなる赦しの日が近づきつつある。
またまた、これから暑い暑い赦しの夏が始まるのだ。
しかし、3年前のようなびゅんびゅん感は全くなく、
かといって、聖霊兄貴に任せ切りながらも、
「兄貴、ちゃんとやってくれてるかな。チラッ…。
兄貴に任せて状況はよくなったかな、チラチラッ!」
という、兄貴を使おうとするスケベ心もない。
自分にはもともと罪などなく、この世界も無い。
故に、在ると思い込んでいるエゴの罪悪感を見つめ、
元から何も起きていない全てを手放すことで、
兄貴に間違った知覚(世界)を取り消してもらう。
その後に起こることは、全て聖霊に委ね、任せ切る。
こういうふうに書くと、少々洗脳チックな感じがして、
なんとなく、後ずさりしてしまう人も多い。
自分のしたいと思うことや、叶えたい夢なんかも、
全部聖霊に任せ、自分でやってはいけないのかと…。
例えば、
役者になりたい、歌手になりたい、作家になりたい、
という夢に向かって努力してはいけないのか、と…。
↑ 毎日朝ごはんを買うおむすび屋さん。
これはあくまで、今現在の僕の見え方ではあるが、
僕の場合、聖霊兄貴の方が本当の自分だと、
意識がシフトしてくると、ふっと思い浮かんだことが
イコール聖霊兄貴の想い、という感じになっている。
自分の想いと兄貴の想いが一致してくるのだ。
そうなると、例えば、本を出版したい、と思ったとき、
それは兄貴の想いと同じこととして感じられる。
そして、本を出版したいという想いが湧き、
それが兄貴の想いだと信頼して任せ切った瞬間、
自分の心の中では、すでに本は出版されていて、
願いは叶えられている、というふうな感覚になる。
これが、エゴの自分(個人の自分)を本当の自分だ、
と信じていた頃は、出版社はどうしよう、とか、
これだと採用されないからこういうふうに書こう、とか、
自分の作品などこんな大きな出版社は無理だ、とか
いろいろ悩んだ挙句、結局、自分の身の程に合った、
これなら無力な自分でも大丈夫、という形態で
作品を発表をしようと模索する。
それが、
兄貴に100%の信頼で任せ委ね切っていると、
思った時点で、もうすでにベストセラー作家である。
根底に大きな〝叶った感〟があるため、
ちょこまかちょこまかと動き回ることもない。
また、心の中で、どうやって叶うのかな、チラッ!
たまたまネットを見たら出版社の広告があったぞ、
これって、兄貴からのメッセージなのかな、チラッ!
というのもない。
それは、ベストセラー作家になって初めて、
「夢がかなった!やった、やったーッ!」ではなく、
思ってる今がすでに〝やったーッ!〟だからである。
後は、書きたいものを平安の中でただ書くだけだ。
全てのタイミングは全て兄貴が決定している。
だから自分は今、この幸せな夢の中で、
やりたいことを思いきりやればいい。
そのための生活の面倒は兄貴が見てくれるから。
ただ、兄貴と繋がってゆく過程にも段階はあると思う。
僕の場合も、最初の頃、
どこか別の場所にいる兄貴に何かをお願いする、
別人格の兄貴にお伺いする、という時期があった。
そこを経て、だんだん兄貴の想いと自分の想いが
一致するようになっていった。
しかし、ひとつ言えるのは、
願望を叶えるために赦しをするのではなく、
願望成就のために兄貴がいるわけでもない。
そんなものとは比べ物にならない場所へと、
兄貴は、僕達をいざなおうとしている。
願望なんて、叶っても叶わなくてもいい、
と達観してできたとき、
唯一無二の願望は達成されるのだ。