香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

自分の体も他者だった


↑この切り取られた四角い画面の中に、
 本当にてっちゃんがいると思って喋っているボク

日曜日、久々に兄弟てっちゃんとスカイプをした。

本当に久しぶりで、4か月ぶりくらいだろうか。

彼は炎天下での仕事が続いているせいか、

元気ではあるのだが、どこかやつれて見えた。


互いの近況→仕事の話→金銭問題→将来について

→最近赦したこと→みんなの噂話→陰謀論

という感じで、会話はいつものように進む。


兄弟てっちゃんは、現在の職人さんの仕事に加え、

自作のランプなどをネット販売したりして、

得意のものつくりに精力を傾注しているのだが、

いかんせん、体力勝負なのと、年齢的なものもあり、

いろいろと将来に対する不安が出てくる。

僕も、このブログで書いている通り、

どんどん会社が縮小し、人員も整理されてゆく中で、

先がどうなるかわからないという状況は同じであり、

そこら辺の、外には出さないが悶々と思っていること、

を互いに出し合った。


それでも、仕事上での怒り、繰り返されるパターン、

生活上の厳しい局面や、そこから出てくる無力感、等

差し出されるレッスンをひとつひとつきちんと見つめ、

聖霊に委ねてゆく兄弟てっちゃんの真摯な姿は、

いつも、僕に大きな励ましをくれる。

「よーし、彼が頑張ってるなら、俺もやるぜいっ!」

と、感慨を新たにさせられるのだ。


まあ、僕たちの会話をスピ仲間たちが聞いたら、

ただのエゴの語り合いにしか見えないだろう。

ただ、僕たちは〝愚痴を言ってハイ終わり。〟

なんて、もったいないことはしない。

一旦、表に出して(光に当てて)ちゃんと認識する。

だから、信頼できる兄弟の前では何でも言う。


「会社員としては俺の年齢で転職なんて無理だよ。」

「毎朝、苦痛の感情と共に目覚めるんだよね。」

「なんでいつも同じ結果になってしまうのだろうか。」



よく、スピ兄弟たち同士で話をしていて、

言い合いというか、攻撃ぽい局面になる事があるが、

それによって、これまで見ないようにしていた

罪悪感や、恐怖や、運子ちゃんが、

澄んだ湖水の底に溜まっていた沈殿物が、

撹拌され、表面に浮き出してくる。

それを直視することで、明け渡してゆける。


聖霊は、愚痴や噂話や討論や言い合いでさえ、

幻想を削除するためのツールとするのだ。

だから、コース兄弟ならなおさらのこと、

争いの波動はよくない、と、表面だけの優しさや、

和気あいあいを装うなんてナンセンスだ。

なぜなら、何がよくて何がよくないかなんて、

個の僕たちには絶対に分からないからだ。


また、今回の会話の中で、

兄弟てっちゃんから言われてなるほどと思ったのが

〝神の平安〟を選択することの真の意味である。


兄弟てっちゃん曰く〝神の平安〟というのは、

現実のシチュエーションや環境が穏やかである、

ということを意味しない。


例えば、一体自分は、どちらを選べばよいのだろう、

どちらの道を行くのが最も神の平安なのだろう、と、

ある状況下で、一つの選択を迫られた際、

それは必ずしも、現実の状況が穏やになる方を選ぶ、

ということではないと言うのだ。


というのも、先日、僕は上海事務所で、

女性事務員の机の中を勝手に開け、引出しの中に、

ずっと見つからなかった財務印を見つけた時、

「兄貴、どうすればいいですか。」と聖霊に訊いた後、

僕は罪悪感にさいなまれながらも、結局、

中にあった印鑑類を全て持ち帰ることを選択した。

このとき、ただ、表面上の平安を選ぶなら、

そのまま印鑑を机に戻して知らなかったふりをすれば

何事もなく、穏やかに事は運んだかもしれない。

しかし、僕はあの時、

どうすればいいか教えて下さい、と聖霊に委ねた後、

最終的に、ふっと浮かんだ自分の想いに従った。


この、聖霊に委ねた後に、

ふっと浮かんだ考えに従って行動した時点で、

すでに神の平安を選択しているのだと、

兄弟てっちゃんは言う。


どうすればいいですか、と、

聖霊に訊いたからと言って、こうしなさい、と、

聖霊の声が聞こえてくるわけではないのだ。

聖霊に任せた後は、

自分から湧き出た思いが聖霊の意志となる。

たとえそれが、すっごくエゴ的な判断に思えても、

自分から出た思いを信頼する。

それが真に聖霊を信頼することになるのだ、と…。


要するに、何が正しくて、何が間違っているかなど、

夢の登場人物である自分に、分かる訳などないので、

信頼して任せた後は、

自分の中から湧いて出た想いが聖霊の決断となる。

それがたとえ、人を攻撃するようなことでさえ、だ。


要するに、兄貴を強烈に意識して委ねた後は、

やったり、言ったりしてはいけないことなど無い、

ということである。


なので、聖霊を信頼するということは、

〝これはいけないこと〟と勝手に判断して、

出てくる想いを止めないことと同義語となる。