香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神組 (KAMIGUMI)

兄弟てっちゃんち二日目は、

昼過ぎに起きて遅い昼食を食べた後、

てっちゃんと二人、王様のお風呂へ行った。

露天風呂の壺湯に浸りながら、3時間も語り合った。

それから、お風呂の帰りに、角上で寿司を買い、

家へ戻って、さおちゃんの手料理と一緒に食べた。


前回も書いたが、今回の滞在中、

てっちゃん大師が何度も降臨し、本当にすごかった。

降臨すると、彼の目つきや喋り方が明らかに変わり、

かっ、と僕の目を見て、滔々と淀みなく話し出すので、

「あっ、降りた!」と、すぐにわかる。

それで、あくる日、書き留めたメモを彼に見せると、

話の内容はおぼろげには覚えているらしいのだが、

「ええっ!俺、そんなすごいこと言ってた?」と、

いつも驚かれる。

しかし、これも、僕がてっちゃんに演らせてるんだな、

と思ったりする。

それで、二日目の降臨の際に彼が言っていたことは、

究極の一元の世界についてだった。


例えば、

わたしは金持ちです、と言った時点で、

同時に貧乏人という概念が生まれるのと同じで、

自分はもう今回で夢の世界を終わらせる、

と言った瞬間、終われない人たちを創り出している。

あの人は目醒めた人、という言葉を発した時点で、

自動的に、まだ目醒めていない人を発生させている。

要するに、父が待つ国へ帰りたいと言うのは、

成功したお金持ちの世界へ行きたい、

というのと全く同様の欲求に過ぎず、その時点で、

すでに分離を生み出している、というのだ。


実相の世界(神の国)しかないのであれば、

この一見狂ったように見える幻想の世界さえも、

神の世界の中でなければおかしいということになる。

なので、

今、自分にとって世界のように見えているもの、

人のように見えているものも実相であり、神である、

ということを神の子の自分がちゃんと、

ここがすでに神の中で、全ての人に罪はない、

ということを目撃すること、

また、ここがすでに赦された世界であることを、

自分が受け入れ、開放することで、

この夢の世界に、神の国が顕われる。


それには、スマホの画面(幻想の画面)ばかりを

覗き込むのではなく、しっかりと顔を上げ、

常に寄り添っていくれている父のほうを観ること、

父とちゃんとコミュニケーションをとることである。

この夜は本当に深い深い夜だった。

これまで僕は、今回で幻想を終わらせ、

父が待つ故郷へ永遠に還る、と豪語してきたが、

何のことはない、父はもうここにいて、

ここはすでに天国で、自分はすでに還っていた。

なぜなら、どうやっても神しかいないのなら、

ここもそうでなければならないから…。


このことを理解した時、本当に心から喜びを感じた。

父を常に感じながら周囲を見回せば、

鉛筆も、パソコンも、ワインも、神だった、

逆に言えば、

神がワインになっちゃった、という感覚になる。

そんな、兄弟てっちゃんとのやり取りの中で、

自分をなんかイラッとさせる人、

自分のテリトリーにぐんぐん入ってくる人というのは、

本当は神が「好きだよ。」と近づいてきているのを、

〝自分の方へ向かってくる嫌なもの〟として、

自我が歪めて感知しているだけだったのが解かる。


例を挙げれば、

満員電車で、隣の人のショルダーバッグの先が、

つんつん自分の身体に当たってくる時の苛立たしさ、

苦手な人がこちらへ向かって歩いてくる時の、

「うわっ。いやっ!」という感覚、

ハトの糞がびちゃっと肩に落ちたときの嫌悪感、

静かな映画館で、隣の席の人が、

くちゃくちゃ音を立てて食物を食べているときの怒り、

それって、父である神が「死ぬほど好きだよーっ!」

と、手を広げてこちらへ突進してきているのを、

〝嫌悪する相手〟として置き換え、認知している。


モノでも、人でも、何かが自分に向かってやって来る、

そういうシチュエーションは全部〝神の接近〟であり、

〝神から離れた〟という思い込みからくる罪悪感で、

歪めて見ていただけなんだ、ということが解かる。


自分はすでに神に囲まれているのだ、と思った。

神しかない、天国しかない、実在は一元だけだ、

と言うのであれば、幻想の中であっても、

そこは一元(神)の中でなければおかしい。

ということは、自分はすでに天国にいて、

天国にしかいることができない、ことになる。


なので、ここで何が起こっていようとも、

もう恐れることはない。

なぜなら、自分が神として解放した世界は、

すでに、神の国なのだから。