香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神の花園


兄弟てっちゃんち三日目は、

コース兄弟たちの間で話題になっている映画、

『アメージング・ジャーニー 〜神の小屋〜』を、

渋谷まで3人で観にいった。

この映画を観るのはてっちゃんが3回目、

さおちゃんは4回目なのだが、僕が無理を言って、

渋谷まで付き合ってもらったのだ。


たった、58席だけの小さな映画館で、

スクリーンも、家庭用のテレビのちょっと大きい版、

くらいしかなかったが、当日は満席だった。

僕たちは前日にネットでチケットを購入していたが、

当日券が買えず、しぶしぶ帰って行く人も大勢いて、

この映画の反響の大きさを知った。


上映が始まってすぐ、あっ、これ、見たことがある、

以前WOWOWで放送してた映画だ、と気づいた。

しかし、当時の僕は、最初の方だけを見て、

娘を惨殺された父親が犯人に復讐する、

サスペンス映画かなにかかな、と思ってしまい、

途中で観るのをやめてしまっていた映画だった。


実際には、その犯人さえをも赦す映画で、

映画館では、あまり深く考えずに観ていたのだが、

あくる日、銀座でランチをしていた時、さおちゃんに、

各シーンに隠されている〝気づき〟を、

ひとつひとつ解説してもらって初めて、

ああ、あのシーンはそういうことだったのか、と、

改めて、この映画のすごさに感動した次第である。

先ず、映画は主人公のマックが、

教会で賛美歌を歌っているシーンから始まるのだが、

そのときのマックは歌うふりをしているだけで、

真に神を信頼していないことが表現されていて、

しかし、

ラストで楽しそうに歌うシーンを入れることで、

神との関係が修復されたことを表現している。


それから、

サラユーが花園の草花をナタで刈るシーンがあるが、

それは戦争、戦い、を表しており、

そこに、マックの癒された涙を注ぐことにより、

最後、その地に花が咲き、樹木が再生する。


また、娘の遺体を埋葬するシーンで、

今度は男となって顕われたPAPAが、

袋からしおれた花を取り出し、

娘の遺体の周りに撒くシーンがあるが、

本当はその花は、ナタで刈られた時の、

あの、花園の花だった。


そして、マックがボートに乗っていたとき、

船に泥が入ってきて転覆しそうになるが、そのときも、

Jが、私を見ろ、こっちを向け、と言っていたのは、

起こっている事の中に入ってゆくのではなく、

顔を上げて神の方を観ろ、そうすれば、

自分が安全だということを知る、という暗示だった。


それから、洞窟の中に現れたサラユーから、

娘と息子のどちらかを地獄へ、と選択を迫られた際、

どちらも選べない、と、マックが答えたとき、

PAPAもあなたたち息子に対して同じ思いだ、

と告げるシーンでは、全ての息子たちは特別で、

同じように愛され、慈しまれている、よって、

兄弟はどんなことがあっても無罪である、

ということを意味している。


また、マックが娘を埋葬する穴を掘っていた場面で、

サラユーが毒を持った根を指して、

「これだけを見れば毒かもしれないけど、

はちみつと混ぜれば薬になる。」と言ったのは、

ひとつの狭い部分だけを見て裁くのではなく、

神の目線から物事を見れば、

世界はもとから神しかなかったことを知る、

ということを表している。


あの、花園をカオスと呼んだのは、

あそこは僕たちの心の中を象徴しており、

ただ、そこにはカオスがあるだけで、

部分で何かが起こったとしても、

全体はやっぱりカオスでしかない。


また、PAPAが女性として現れたのも、

マックが父との関係をうまく築けていないことを

解かっている父が、マックを怖がらせない為に、

敢えて女性として出現した。

また、近所のおばさんがPAPAだったのも、

父は隣人や友を装って自分に寄り添ってくれている、

すなわち、鞄や衣服や虫や本や食べ物となって、

あなたに話しかけている、それらはPAPAなのだ、

ということである。

様々な真理が、言葉による説明ではなく、

ただ、シーンによって見せられてゆく映画だった。

そのことをさおちゃんの解説によって理解でき、

そういう作品は、見る側の段階に応じて、

幾重にも深い気づきをもたらしてくれるのだな、と、

新たな感慨を覚えた。


というわけで、4日目の最終日は、

昼から半日だけ東京本社へ出社する日だったので、

ランチの後、会社まで兄弟てっちゃんに送ってもらい、

ハグをして別れた。

会社では、コンババ部長と打ち合わせをしたり、

夜は、管理部の人たちと沖縄料理へ行って飲んだ。

その間も、相手を神の子として開放しながら、

相手を父と同じ眼差しで観ていた。

それは、兄弟を完全な無罪として解放する眼差しだ。


そして、次の日は、成田から四国へ移動した。

僕のアメージング・ジャーニーまだまだ続く。