兄弟てっちゃんちで3泊した。
一日目は、武蔵野茶房で団子を食べながら、
てっちゃんが仕事を終えて帰ってくるのを待ち、
それから、西荻窪のイタリアンで再会を祝して乾杯し、
その後、食料を買って、てっちゃんちへ向かった。
後はひたすら、酒を飲みながら朝まで語り合った。
今回は意外にも、てっちゃん大師が連続降臨した。
彼曰く、
嫌な事を言ったり、やったりしてくる相手、つまり、
自分にとって苦手な相手が現れるというのは、
自分が相手にその役割を〝演じ〟させている、
つまり、こうあるべきあなたを演じなさい、と、
相手に依頼した結果なのだという。
なので、自分が見たい相手を演じさせるのではなく、
そこから相手を開放させること、要するに、
相手をあるがままの神の子で存在させること
相手を神の子として開放してあげることが、
赦しであり、個の自分が担う唯一の役割である。
また、別の言い方をすれば、自分が相手を、
神の子して解放しようという意思を持つことで、
全ての人は神の子として存在することができ、
神の子としてのパフォーマンスを表現できる。
逆に言えば、
相手に神の子を表現させなかったのは自分であり、
相手に〝神の子でいていいよ〟と許可を与え、
赦すことができるのも自分だけだ、ということなのだ。
自分が〝演じさせている〟相手を開放することで、
相手は神の子になれ、自分も神の子となれる。
そしてそれが、
与えるものは受け取るもの、の真の意味である。
そういえば、普段はそういうことはないのに、
なぜかこの人の前では、きつく当たってしまう、また、
初対面で、別に何の利害関係がないにも関わらず、
なぜか、いらいらさせられる、ということがある。
それは、自分が相手からそういう役割を、
〝演じ〟させられているということなのだ、
結局、夢の他者だけでなく、自分自身を開放しないと、
個の自分が神の子として開放されない、
と、兄弟てっちゃんは言った。
自分に対して神の子で在ることを赦す。
自分に神の子の平安を表現させる。
そのためには、父(神)に気づいている事が大切だ。
常に自分と共に在り、どんな時も愛だけで見つめる
神の眼差しと共に在ろうとする意思をもつこと。
病気であっても、いじめにあっていても、
人間関係で悩んでいても、お金がなくても、
相手を神として解放してやることが重要なのだ。
神の機能だけでいる。
神が常についていてくれている、
という感じが根底に流れていれば、
そこで起きること全部が、神の世界なのだ。
とうとうと話すてっちゃんを見ながら、なんだか、
神がてっちゃんの口を通して僕に語りかけてくるような
気持ちになった。
そうだ。
神の機能(はたらき)だけに寄り添っていると、
ここには神しか存在しえないが故に、
この幻想世界も神だけとなる。
例えば、ここにワインがあるとする。
その時、神をワインにしているのは自分であり、
ワインにワインのパフォーマンスをさせている、
自分の想いを神に返すことで、
ワインは神に変わらずにはいられなくなる。
この降臨を皮切りとして、てっちゃん大師は、
僕に様々な気づきをもたらすことになる。
乞うご期待、なのだ。