↑ペントハウスバーの屋上からの景色
年末ということで、ここのところ、会食が続いている。
昨日は、トレーニングが終わった後、トレーナー氏と、
ジムが入っているビルのペントハウスにある、
バー&ステーキハウスへ飲みに行った。
ここは以前から気になっていて、
そのことをトレーナー氏に話すと、
ちょうどセッションがキャンセルになったので、
一緒に行ってみよう、ということになったのだ。
九龍側の夜景が一望できるテラス席で、
ワインを飲み、ミニステーキを頬張る。
前回のインド料理といい、広東料理といい、
いい景色においしい料理とワイン、楽しい語らい、と、
香港兄弟たちのお蔭で、
とても安らかで楽しい12月を過ごしている。
というわけで、ここ最近は、J兄貴に、
自分の肉体と自我を託し切って生きている。
すると、自我に対して、とても敏感になる。
自分の心はこんなにも〝江後田自我男〟だったのか、
という事実をまざまざと感じさせられるのだ。
これまで、なんの気なしにやっていた行為や、
話している内容が「うわっ。エゴだあ!」と、
ナノレベルで知覚されてくる。
ただ、幸いなことに、
自分で自我をどうにかする必要はないので助かる。
ただ見つけだし、後の事は兄貴に全托するのである。
まず、
自分が心の中で何をやっているかを認識した上で、
〝私は完璧な父の子である。故に一切である。〟
と、自我の罪をすべて兄貴に任せてしまう。
例えば、
同僚が発した〝まあどうでもいいけど〟という一言、
地下鉄車両のドアが開くと同時に走り込んできて、
きょろきょろと空席を狙っているおばちゃん、
明日会う嫌な人の事を考えて憂鬱になる瞬間、など、
そう感じるたびに、
〝神の子はこうである必要はない〟
〝一切である自分がこのように感じる必要はない〟
という意志を兄貴に開放してゆく。
これをやっていると、
自分がどれだけ、エゴの指示通りに動き、
感じているか、ということを思い知らされる。
ただ、罪があるのはエゴであって、自分ではく、
ましてや、兄弟でもない。
故に、心が罪悪感を感じる必要は全くない、
と認識する。
〝あなたが罪悪感を感じる時に思い出すべきは、
自我は確かに神の法を犯してきたが、
あなたは犯していない、ということである。〟
〝あなたが悲しんでいる時、
こうである必要はない、と知りなさい。
あなたが不安である時、
不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、
こうである必要はない、と知りなさい。
あなたが悦びにあふれていないとき、
常に誤って選んだということだが、そのときには、
そうである必要はない、と知りなさい。〟
(『奇跡講座テキスト編』 第四章 自我の幻想
Ⅳ.こうである必要はない〜より抜粋)
こんなふうに過ごしていると、突然、
兄弟たちに対する感謝の気持ちが込み上げてきた。
なんでこんなに有難いのかは不明なのだが、
全ての兄弟達が〝善〟を放出しているように見える。
目の前に映る個々の兄弟に対しては、
善を見出すなんの根拠も、理由もないのだが、
ただもう、有り難さだけがひゅんひゅん疼いている。
話は変わって、
日ごろから、ワイドショー大好き、噂話大好き、
道で誰かがけんかをしていたら、必ず駆け寄り、
「やれやれ!もっとやれーっ!」と、
高みの見物をしているような僕だったのだが、
ここの所どうしたわけか、
こういう〝エグい〟状況が苦手になってしまった。
テレビで、元横綱日馬富士の暴行について
云々する場面を見ては、
いたたまれなくなってチャンネルを変えてしまったり、
流産をした母親が、
赤ちゃんを産んで幸せそうにしている隣人に嫉妬して、
さまざまな嫌がらせをする、という映画を見ては、
我慢できずに、途中で観るのを止めてしまったり、
仕事上で誰かが誰かを攻撃するシーンに遭遇しては、
耐えられなくなってその場を立ち去ったりする。
ドラマも、ドロドロ系は見れなくなったし、
相方を〝どつき〟まくる漫才もダメ。
なんだか、
自分がそうされているように感じてしまうのだ。
いままで大好物だった「やれやれ!もっとやれー!」
系のシチュエーションを受け付けなくなった自分に、
誰より、僕自身が驚いている。
どうしよう。
このまま行ったら、神様みたいになっちゃうよぉ!