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「先に降りて、そのあと乗る。!」
ひゃっほーい!
新ブログに移行が完了したよ。
兄弟てっちゃん、お疲れ様でした。
まだまだ使い勝手がよく分からないけど、
なんとか慣れていくしかないね。
今後ともよろしくお願いいたします。
〝ひとり しみじみ 不幸を感じ
ついてないわ と云いな~がら~♫
京都から 博多まで あなたを追って
今日も逢えずに 泣くーっ おんなぁ~♪〟
と、藤圭子の不幸節を聴きながら、はっとなった。
「俺って、今まで一度も幸福であったことがない!」
と…。
要するに、程度の差こそあれ、ずっと不幸だった、
ということに、今さらながら気づいたのだ。
まあ、瞬間的には幸せであったかもしれないので、
幸福を〝平安〟という言葉に置き換えても構わない。
そうやって、ようくようく、自分の人生を見てみると、
真に平安であったことなどただの一秒もなく、絶対、
どこかで何かを不安がっているか、心配しているか、
後悔しているか、不満に思っている。
僕の場合、
香港で駐在員として気楽に暮らしてはいるが、
会社から帰任命令が出れば、従わざるを得ないし、
仕事だって、楽な時もあれば、苦しい時もある。
それでも、ある種その環境に慣れ親しんでいて、
自分で対処もできれば、安定もしているので、結局、
「いろいろ大変なことはあるけどさ、まあ俺の人生、
おおむね満たされていて、幸せなほうだよ!」
というところへ落ち着く。
でも、ちょっと待てよ!
神の子が、おおむねって何?幸せなほうって何だよ?
おおむね幸せ、ってことは幸せでないってことじゃん。
第一〝このときだけ平安〟って、あり得るのか。
(※アリエールでしょ、などというツッコミは拒否!)
以前、デイヴィッドが、
保険で元を取るには、病気になるか、事故に遭うか、
死ななければならない、と言っていたが、
何か痛い目に遭った時のために保険に入っておこう
なんて、平安でもなんでもない。
第一保険が下りた時点で、
すでに痛い目に遭っているじゃないか…。
だから思うのだ。
僕はもう完璧で完全な平安しか望みません、と…。
もう、24時間、聖霊兄貴の方しか向きません、と…。
神の国以外のものは全部放棄します、と…。
ただしこれは、今まで〝まあまあの幸せ〟の中で
築いてきた人間関係や、パートナーシップを、
完全に手放して聖霊だけについてゆく事を意味する。
心の中だけで手放すのではなく、
現実に〝やめる〟決断をすることを要求される。
これは、嫌な感情を持っている相手に対して、
心の中で赦しながら、柱の陰から覗いて、
「変わったかな。変わったかな。」とやるより、
「私はあなたの事をこう思っています。」
と直接表現した方が、幻の罪悪が直接光に晒され、
即座に消えてゆくのと同じ原理である。
ただし、この段階にくるには、
ここが幻想の世界であると、
真の理解が起きている必要がある。
それが起こる瞬間までは、やはり、
心の中を赦すことに専念することとなる。
もちろん〝びゅんびゅん〟は絶えずやってくる。
それでも、もう、これまでのやり方はうんざりだ、
とも思っている。
というわけで、聖霊兄貴だけと向き合っている。
外の世界で起きることに自分の責任はない。
自分の責任はただ、聖霊を受け容れることだけだ。