何ひとつ決めては来なかったのだ、ということが、
ありありと見えている今日この頃である。
これは自分で選んで決めたことだ、と思っているが、
ようくようく、その想いの発生源をたどってみると、
突然〝ふっ〟と湧いてきた考えを捉え、
それを、自分で考えた、と思っているに過ぎない。
それは奇跡講座の実践においても同じである。
赦そうとする想いや、聖霊に委ねようとする想いや、
兄弟を神の子として受け容れようとする想い、なども、
ただ、ソーダ瓶の底から湧き立つ泡の筋のように、
〝ふっ〟とその想いが湧いてきているだけである。
なにひとつ、自分で〝赦そう〟と決めてはいないし、
自分で何かを赦してもいない。
だが、
聖霊は常に幻想を取り消すために、様々な形で、
実相からの〝ふっ〟を送り続けている。
その〝兄弟を赦したい〟〝聖霊に委ねたい〟
といった聖霊から発せられる〝想いの泡〟を、
ちゃんと認識し、見つめ、聴きとめてゆく。
そうやって、僕たちは赦され、癒されてゆくのだ。
赦そう、委ねよう、明け渡そう、という想いが、
思考の中に自然と顕われ出てくるということは、
聖霊の想いが顕われ出ているのである。
それは同時に〝一なる眠れる神の子〟が、
あると思い込んでいる罪悪感は〝無〟だった、
ということに気づき、夢から目醒め始めている、
ということをも意味する。
そうやって僕たちは〝全体として〟目を醒ますのだ。
というわけで、先週、大阪滞在中の木曜日、
もともと入っていた名古屋出張が突然飛んでしまい、
おかげで、とある、バリバリスワットなコース兄弟と、
一緒にランチ&お茶をすることができた。
〝決めたこの道まっしぐら〟な兄弟との語らいは、
やはり、とてつもなく貴重で、楽しいものだった。
中でも、僕の中で深く入ったのが、
天国(父が待つ故郷)へ帰る鍵は兄弟が持っている、
というシェアだった。
兄弟を責めるのは神を攻撃しているのと同じであり、
故に、自分を傷つけているのと同じである。
よって、全ての兄弟の中に宿る神を祝福することで、
互いの鍵を共有することができる、ということだ。
帰宅後、祝福の意味を辞書で引いてみたら、
〝相手が幸せであることを歓ぶこと〟とあった。
おお、なるほど…、ナットク!