香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

訂正を受け容れる場所

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↑土曜の午後、筋トレの帰りにカフェでお勉強
 

 

前回の記事でも書いたが、

 

新会社がスタートして以降、仕事が超忙しい。

 

毎日夜9時頃まで残業をしている。

 

というのも、支払いやインボイスの帳票類を、

 

旧会社と新会社に分けて管理せねばならず、

 

そのため、同じ作業を二度行なう必要があるからだ。

 

中でも、きぃーっ、となるのが小切手の発行である。

 

せっせと手書きで小切手を切るのだが、

 

何度も英語の綴りを間違え、今度こそ、と思って、

 

慎重にやると、緊張して余計に間違える。

 

ああ、こんなとき、ケリーがいてくれたらなあ、と、

 

サインだけしてればよかった過去に想いを馳せつつ、

 

夜九時に、書き損じの小切手をシュレッターに掛ける

 

うぃぃーん、という音を聞く僕である。

 

 

それでも、仕事自体は嫌いではない。

 

会社にいる時間と、プライベートな時間との間に、

 

全く差がない状態となっているので、

 

帰りがいくら遅くなっても、ちっとも苦にはならない。

 

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↑この日は、九龍公園が一望できる

  会計事務所の会議室で打ち合わせ。

  一度でいいからこういう所で働いてみたい。

 

というわけで、

 

もう聖霊の訂正を受け容れるだけでいいんだ、

 

と、しみじみ思う今日この頃である。

 

 

僕達は普段、意識しているしていないに関わらず、

 

問題を解決するためにどのように行動するべきか、

 

この厄介事や災難を避けるために今何をすべきか、

 

また、明日会う、あの嫌な人にはどう対処すべきか、

 

など、常に未来への防衛を意識しながら生きている。

 

 

しかし、Jは、

 

「未来に起こって欲しい理想的な結果を得るために、

 

 過去の経験を使って、いま何をすべきかを考えたり、

 

 過去の知識を使って、今起こっている問題を

 

 どのように解決するかに想いを馳せることに、

 

 あなたは一切責任を持つ必要はない。」 と言う。

 

それらの問題が起こっているのは、

 

僕達に原因があるのではない、というのである。

 

そして、僕たちが唯一責任を持つべきことは、

 

今、自分が抱えている問題や、起こっている世界や、

 

他の人についての全ての想いを隅へ追いやり、

 

今、この瞬間に、聖霊による修正を受け容れよう、

 

今、この瞬間に、聖霊とひとつになろう、

 

今、この瞬間に、聖霊の観方で知覚させてもらおう

 

と意志することだけである、と…。

 

 

しかし、そうは言っても、

 

今、この瞬間に自分の想いを隅へ追いやる、

 

なんて芸当、一体どうすればできるんだろう。

 

だって、隅へ追いやろうにも、想いは〝ふっ〟と、

 

絶え間なく、勝手にどんどん湧き出てくる。

 

 

そんなことを考えながら、この日も、

 

夜9時ごろまで残業をし、帰りのバスに揺られていた。

 

バスの二階席から、香港特有のネオンに彩られた

  

通りの様子を眺めていると、

 

〝今の会社に残り、東京へ行って本当にいいのか〟

 

〝東京へ行くと、香港の友人達とも逢えなくなるな〟

 

〝また、新たな土地で一から生活を築くのかあ…〟

 

という想いが自動的に〝ふっ〟と湧き上がる。

 

 

と、そのとき 「いま、ここにある平安に留まれ!」

 

という声が、どこからともなく聞こえ、

 

「ああ、はい。わかりました。」となった。

 

 

例えばこういう事である。

 

すごく嫌な相手と明日会うことになっていたとする。

 

将来になにか不安を抱えていたとする。

 

または、LINEで深刻なやり取りをしていたとする。

 

しかし、ハッと我に返ってようく見てみると、

 

今、眼前に見えているこの景色は平和そのものだ。

 

ネオンの看板はキラキラと点滅しているし、

 

人々は通りをゆったりとした様子で歩いている。

 

エアコンの効いたバスの中は快適だし、

 

近くの席ではカップルが肩寄せ合って眠っている。

 

そうなのだ。いま、この瞬間には何の問題もない。

 

 

じゃあ、いま、震災に遭っている人はどうなるんだ、

 

と異議を唱える人もいるかもしれないが、

 

それだって、異議を唱えている本人は、

 

いま、震災に遭っている訳ではなく、

 

やっぱり、眼前の風景は平安なはずである。

 

誤解を恐れずに言うならば、

 

震災に遭っている人はどうなるんだ、

 

と、疑問に思った瞬間に、心の中で、

 

震災に遭っている人が造りだされている訳で、

 

本当は、震災に遭っている人は存在しない。

 

要するに、僕たちは巧妙に騙されているのだ。

 

 

過去や未来に対する不安や恐怖を脇に置くとは、

 

いま、眼前に見える平安に意識を留めることであり、

 

その中で、

 

別の解釈を与えてくださいと聖霊に頼むことこそが、

 

自分の負うべき唯一の責任であり、

 

聖霊の訂正を受け入れる、ことの真の意味である。

 

 

こうやってみると、僕たちは結局、

 

目の前に顕われている風景にイエスと言う以外、

 

何もする必要はなかったことに気づかされる。

  

 

 

そう言う意味で、

 

コースをやり始めた初期にちょっとハマっていた、

 

エックタルトの〝今に在る〟が、一周まわって、

 

今見えているもの=平安=訂正を受け容れる場所

 

という理解につながっている感じがしている。