最近、新作を書き始めている。
今書いているのは、
ある日本人の青年が、中国共産党幹部や、
中国富裕層から成る秘密結社と関わることになり、
そこで展開される、フェティシズムの体験を通して、
最後はハートの喜悦の中で真の神に出会う、という、
ちょっと、いや、相当〝イッちゃってる〟物語である。
この作品、エロスのなかに赦しを扱っているという、
僕としては渾身の力作だと勝手に思っているのだが、
よい子のスピ兄弟たちにはドン引きされ、
大陸では、絶対禁書になること間違いなしだろう。
乞うご期待!
そして、ここ最近、僕のハートの喜悦と言えば、
筋トレ帰りに通るカフェで、街の風景を眺めながら、
白ワインを飲みつつ、奇跡講座を読むことである。
(ちっちゃ!)
まあ、皆さんも多分、そうだと思うのだが、
テキストの、これだといったページに付箋を貼ったり、
感動した文章にハイライトを入れまくっているうち、
ほとんどのページが付箋だらけになり、
大部分の文章がハイライトで埋まってしまい、結果、
付箋や棒線の意味がなくなってしまうという、
コースあるあるに陥ってしまうのだが、
それを避けるために、僕の場合は、
本当に好きな言葉は、書き写すようにしている。
それを後にワードへと転記し、保存してゆく。
ちょっと手間なのだが、書くことが好きな僕には、
このほうが、内容が咀嚼でき、性に合っている。
そんな中、
いつもの様にカフェで奇跡講座を読んでいたとき、
天国とだけ100%繋がって生きることを、
先延ばし状態で、引っ張り続けている僕に、
ががーん、と来る言葉が出てきた。
〝真理であるがゆえに、自分が否定したものを、
わたしはみたいだろうか。〟
これはとても重要な問いである。
自分が否定した真理を見ることに同意するとは、
真理を隠蔽するための代用物を手放す、
ということを意味する。
思いつくままに例を挙げてみるならば、
本当はそんなに幸せな結婚生活ではないけれど、
かといって不幸だというわけでもないし、
今の生活や、旦那の経済力を失うのは怖いし、
まっ、なんとなくこんなもんか、と思っている主婦や、
この仕事は本当にやりたいことではないけれど、
そんなに苦でもないし、安定した収入もあるので、
ま、いっか、と思っているサラリーマンや、(←ボク)
お金もあるし、物理的な自由も手に入れたし、
恵まれてはいるけれど、どこか空虚でむなしい、
といったようなものを、心のレベルだけではなく、
カタチのレベルでも手放すこととなる。
まあ、心のレベルで手放せたら、カタチのレベルでも、
自然に手放すことに躊躇はなくなるのだけれど…。
こんな話をすると、
「真理?うん、見たい、見たい。」と思いながらも、
日常生活の大切な部分を放棄せねばならない、
と聴いて、鼻白んでしまう人も多いだろう。
僕達は、できることなら、
真理を隠蔽するために使っていたものが、
聖霊の采配でいい感じに変化し、
幻想の良い部分は手放さずに幸せな夢に至る、
みたいな事を望みがちだが、そうはならない。
幻想を維持しながら真理を見ることはできない。
ただ、反対に、その心の準備が整うまでは、
決して動くべきではない、とも思うのだ。
物理的レベルで手放す準備が整ってきたら、
聖霊から自然とそういう状況を差し出される。
そこで、OKを出すかどうかを自分が選択する。
そのOKを、もうそろそろ出すかどうか、
という瀬戸際にいるのが今の僕、というわけである。
僕はまだ、ほんの少しだけ兄弟のことが怖いし、
まだわずかに、天国に対する恐れが残っている。
その一方で、自分や兄弟が完璧な無罪であり、
この世界が完全に夢であることも智っている。
帰還まで、もう秒読み段階に入っているいま、
輝いているように見えるいくつかの小物も、
ほんの近い将来、僕の中では光を失うことだろう。
ああ、許小姐(フランシスの中国姓)
助けて!
(↑ そっちかいっ! by 兄貴)