↑ 稲垣足穂『一千一秒物語』絵本版
たむらけんじ氏による挿絵
約一か月前に起こった一瞥体験を通じて、
真に理解できたことは〝自我なんてなかった!〟
という衝撃の事実であった。
一瞥の最中は、
自分も自我も存在せず、完全に空っぽで、
ただ〝それ〟(眠っている神の子の意識)があるだけ、
という究極の状態だったのだが、
この〝自我なんて存在しない〟という体感は、
自己が回復し、意識が通常に戻った後の僕に、
大きな変化をもたらすこととなった。
もちろん、一瞥体験後も、日々の日常の中で、
普通に、恐怖感や不安感は上がってくるし、
自然に、江後田自我男による妄想劇場も起こる。
しかし、それでもエゴはないと真に解かっている。
↑ 小説『ジンジャー・タウン』の挿絵を
たむらけんじ氏に描いてもらうのが僕の夢…。
どういう事かというと、
聖霊を受け容れるということは、
この行為はエゴからのものか、聖霊からのものか、
とか、これはエゴの選択か、聖霊の選択か、とか、
このメッセージは本当に聖霊からのものなのか、
といった、エゴか聖霊かを分別しようというような、
どちらかを選ぶ、みたいなものではなく、
つまり、自分が、誰かから傷つけられていようが、
将来に恐怖し、欠乏感にさいなまれていようが、
目の前の事に忙殺され、きぃーっ、となっていようが、
聖霊に全托した時点でもう、そんなことも含めて、
それは全て聖霊の中で起っていることであり、
そこは聖霊に導かれている世界である、ということだ。
もっと突き詰めれて言えば、エゴが存在しないので、
一旦聖霊を選択してしまえば、
聖霊を選んだり、聖霊に何かを明け渡したりする、
という行為自体がそもそも成り立たなくなる。
選べる、ということは、選択できる他の何かがあり、
明け渡すということは、他に明け渡せる何か(エゴ)
がある、ということを意味する。
なので、この部分は自我で間違っていて、
これは聖霊の正しい部分、というのは存在し得ない。
もし、聖霊に訊いた結果、このレストランより、
あのレストランで食事をすることにしたのなら、
他のレストランで食事をすれば、
それは間違っているということになる。
だから、聖霊に訊いて、何をするかを決めたり、
聖霊の導きでどこかへ行って何かをすることになった
などということ自体、今の僕の中ではあり得ない。
なぜなら、
聖霊しか真実ではないのなら、選択の余地などなく、
どんなことがあってももう、神しかないはずなのだ。
僕達はただ、そこに〝信〟を置くだけでいい。
↑ もうすぐ兄弟てっちゃんが、こんな感じの、
素敵なヘッダーを創ってくれる予定なのだ!
そうやって、自我の不在が理解できてくると、
何かをしている自分や兄弟はなく、よって、
誰にも罪なんかないことが、おのずと解かってくる。
ただ、誤解を避けるために言うならば、
自我はある、と、無意識の心が信じている間は、
やはり、聖霊を選択する訓練をするべきだし、
自我の想いを聖霊に明け渡す実践を続けるべきだ。
そうやって、ある段階まできたとき、
ああ、自我なんて、もとからなかったんじゃん、と、
真の理解が起こるのだろう。
というわけで、香港は秋本番、
摂氏20度の爽やかな日が続いている。
飛び回ることに疲れている僕は、
今週はもう、絶対に飛行機には乗らない、
絶対に出張しない、と決心を新たに過ごしている。
あっ、いけない、これって自我? ううん、大丈夫。
だって、聖霊を選んだ時点で、こういうのも含めて、
もう完璧な〝聖霊〟の導きの中にいるんだから…。
(↑ うわっ、でたあーっ!ご都合奇跡講座!)